8階の話をするな《前編》嫌なバイト先

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扉が閉まると、一拍遅れて足元が横に揺れた。 …………今どき珍しい油圧式か。このフワフワした感じは懐かしいんだけどな。 油圧式エレベーターは工場や倉庫などでは、まだ、よく使われるが今は一般的なワイヤー懸垂式と異なり、少しばかり昇降速度が遅いので、上層階に上がるまで微妙な閉塞感と孤独感を感じることがある。初めての職場だというので、少なからず緊張しているというのもあるだろうが、秀人は、この外部と遮断された僅かな時間があまり好きではない。  なんというか、このエレベーターが何処へも停まらず永遠に上昇し続けたり、あるいは昇っているはずが地の底まで下降を続けたりといった、あり得ない幻想に捕らわれて、しかも、そうなってくれたらイヤなバイトが合法的な不可抗力によって臨時休業になると嬉しいという、あまりにも情けないオチへとつながるからだ。  これから働こうというヤツが、働く前から休みたいでは困るけれど、それは、ラッシュアワーの山手線に押し込まれるエリートさんたちだって同じなのではなかろうか。  国鉄も民営化されるというが、そんなことで、あの殺人ラッシュが解消なんて、できる訳がないのは貧しい一般民間人の秀人にだって解る。解ってないのは金持ちだけだ。  金持ちがお金を貯めこむから芝居小屋の数も減る。チケットのノルマ負担が重くなるのも、ノーギャラなのも、みんな旧財閥の資本家と総理の中曽根サンが悪いのだ。  …………くそ。簾禿(すだれはげ)の不沈空母野郎め。守銭奴は早死にするに違いないぞ。  秀人が若く無軌道な怒りに拳を握っていると微かな振動と一緒にエレベーターの上昇が止まり、灰色の扉が開くと、そこは薄暗い照明が灯る表通りに面したフロアーだった。  本来なら、ここで深呼吸して配属先の店へ駆け込むのだが、狭いエレベーターを降りたというのに、奇妙な圧迫感が離れないことに秀人は戸惑った。  --------------なんだろう? このヘンな感じ。ああ。天井か!  圧迫感の正体はすぐに知れた。黄ばんだ漆喰の天井が低いのだ。  これも古いビルには珍しいことではなく、戦前の人間の体格身長が今と違って微妙に小さかった時代の建物なので、それに合わせて造られているせいだ。   
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