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「晃平さん。結婚にあたって、ひとつだけお願いがあります」
真緒さんが、まっすぐにぼくの目を見て切り出した。
ぼくも思わず、姿勢を正して耳を澄ませる。
「わたしがこんなだから、あの子は父親が帰ってくる家庭を知りません。だから、仕方のない場合を除いて、どんなに仕事が遅くなっても、必ずあの子の待つお家に帰ってあげてほしいの。それがわたしの、心からのお願い」
そこまで言うと真緒さんはにっこり笑い、
「娘を、よろしく頼みます」
と、ぼくに深々と頭を下げた。
「なしたのさー?二人とも神妙な顔して」
ちょうどその時戻ってきた伊緒さんが、真緒さんとぼくを見比べて不思議そうにしている。
「やあだよう。晃平さんにタレひっかけちゃって、謝ってんのさあ」
顔を上げた真緒さんが、てへぺろっと舌を出す。
「ええ!はんかくさい!晃くん、すぐ洗わないとしみになるよ。母がごめんねえ」
そんなやりとりにかこつけて、ぼくも手洗いに立つことにした。
なぜなら真緒さんの言葉にもう涙腺が限界で、このままだと絶対泣いてしまっていたから。
立ち上がったぼくに真緒さんがこっそり片目をつぶってみせ、ぼくは小さく強く頷いて応えた。
手洗いで顔を洗って気を落ち着かせ、戻ろうとして遠巻きに元の席を見ると、何やら話し込んでいる母娘の姿が目に入った。
伊緒さんは少し笑って、真緒さんのグラスにビールを注いであげている。
ぼくは再び涙腺がゆるんでしまい、その光景をしっかりと目に焼き付けた。
ああ。もう一度、顔を洗ってこなくっちゃ。
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