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ぼくが高校生の頃はまだ、駅員さんが手で切符にスタンプを捺していたのが自動改札になり、駅舎も近代的に改装されて当時の面影はない。
そのせいか、いつもならどんな人ごみでも瞬時に分かる伊緒さんの姿が、なかなか見つからない。
改札を出て、見えるところにいると言っていたのに。
右から左へざあーっと視線をめぐらせる。
今度は左から右へざあーっと……。
と、こちらに向かって小さく手を振っている女性がいる。
疲れ目のピントがその人に合った瞬間、ごく控えめに言ってぼくの世界のすべてが静止した。
ファウストは言いました。
「時よ止まれ」と。
「君は美しい」と。
そこには白地に濃紺の桔梗柄をあしらった浴衣姿で、伊緒さんが佇んでいた。
長い黒髪は頭の上でゆるくお団子にして、素足の下駄履きがなんともあどけない。
これはもう、完全に意表を突かれてしまった。
まさか、浴衣を着てくれるとは……。
心がまえなぞできていなかったぼくは、阿呆のやうに立ち尽くすのみだつたのです。
さういふものにしか、なれなかつたのです。
時よ、止まらなくていい。
君はずーっと、美しい。
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