一 下見

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一 下見

 三月上旬。朝八時三十分。  雪が散らつている。明日から三日間の大学入試だ。試験会場はここ工学部の大教室だ。物質化学科を受験する。試験は朝九時からなので前日の今朝、予行演習している。三月なのに雪だ。さすが信州北信濃だ。 「何をすき好んで、信州なんかを受験するんだ。地元に群馬があるだろう」  と兄に言われた。佐介の地元はここ長野県の隣りの群馬県だ。  S大工学部の門を入ると、黒いダウンのロングコートに身を包んだ、薄茶のカールした長い髪の女が目についた。工学部を訪れる者たちをビデオカメラで撮している。佐介より頭一つ分身長が低そうだ。  女は長身の佐介に気づいて、カメラのモニターから顔をあげた。鼻筋が通った小顔の大きな目がメガネの奥から佐介を見つめている。エキゾチックな顔だ。 「入試の下見ですか?撮っていいですか?  私は小田真理です。信州信濃通信新聞社、社会部の記者兼デスクしてます。名ばかりの編集長かな」  佐介に微笑みながら自己紹介した。 「ああ、いいよ」  そう答え佐介が試験会場の大教室がある教養棟へ歩こうとした。 「密着していい?」と小田真理。 「今から?」  この寒い日に、ずっと一人で密着取材するのは大変だ。 「ええ、そうよ」  小田真理は佐介の心配など気にせず気楽に答えた。 「いつまで?」 「合格発表まで密着する」 「合格しなかったら?」 「合格するよ。必ず」  小田真理がまた微笑んだ。ふわふわのウェーブした薄茶の長い髪に小雪が載っている。あどけない少女のような印象の小田真理の微笑みに心を奪われ、佐介は、 「ありがとう。密着していいよ」  と答えていた。  小田真理を見て、気持ちが舞いあがったわけではない。むしろ、明日からの試験もあって気持ちは冷めていた。昨日の夕刻から、長野駅に近いビジネスホテルに、試験が終る日の翌日まで五日間の予定で宿泊している。一晩泊まっただけで、あまりに静かなホテルの部屋と周辺に飽きていた。小田真理の出現は、冷え切った身体にしみわたるホットドリンクのような印象だった。 「密着許可をありがとう。感謝します」  小田真理は佐介にカメラを向けて、カメラのモニターを見ながら言う。 「じゃあ、名前を教えてね。その後は、私からは話さない。ドキュメント録画にするから」 「俺は飛田佐介、通称サスケだ。外観じゃない。ここさ」  佐介は頭を指さした。  小田真理はカメラのモニターを見ながら、 「なるほど、頭の回転が速いってことね。何科を受験するの?  ああ、ゴメン。受験の取材だから、出身地と受験する学科くらいは訊いとかないとね」  と言ってモニターから顔をあげた。メガネの奥で目が微笑んでいる。 「出身地は群馬のみどり市だ。物質化学科を受検する」  佐介は小田真理を無視したように大教室がある教養棟へ歩いた。ドキュメントと聞いて気を利かせたつもりだった。  小田真理はすごくかわいい人だ。小雪舞い散る日で底冷えする。ダウンのロングコートを着ている小田真理のシルエットから、小さな肩と胸、くびれた腰、ちょっと大きめの尻と長い脚を想像するのみだ。しかし、明日から試験というのに、こんなことを考えていていいのだろうか・・・。 「あたしは太田市だよ。ここで環境工学を学んだ」  小田真理は録画しながら佐介を追ってきた。 「同郷で先輩か。あははっ、もう合格してる気になってるよ」  佐介は自分の言葉に思わず笑っていた。 「だいじょうぶ!合格するよ。明日の受験と同様に対処してるから心配無いよ」  小田真理は、佐介が明日の試験開始前の時刻に合わせてここに現れたのを察していた。 「もしかしたら、小田さんも試験前日に、試験当日を想定して下見してた?」  佐介はふりかえらずにそう言った。ふりかえったらドキュメントにならない・・・。  佐介を追って小田真理が小走りについて来る。 「そうよ。備えあれば憂い無しだね」 「明日からの試験の間、小田さんはどうしてる?」  教養棟の玄関ホールから廊下を大教室へ歩きながら、ふりかえらずに訊いた。 「朝の試験前と昼と試験後を録画する。試験と試験の間は、そのつど様子を見て録画する。  私が居なくても気にしないでね。信州信濃通信新聞社は県庁の近くだから、ここから車で十五分くらいかかる。新聞社で何かあれば戻るし、休憩するなら長野駅付近の叔母の店へ行く。店はここから車で十分くらいだよ」 「わかった。受験に専念する。小田さんを透明人間だと思うようにするよ」  佐介は小田真理の存在を気にしないことにした。 「うん、そうしてね。気楽に真理と呼んでね」  小田真理は佐介の緊張をほぐしているらしかった。  この日、試験会場を下見したあと、佐介は大学の食堂で早めの昼飯にした。ホテルで満足な朝食を食べなかったから、ブランチみたいなものだ。真理は佐介を録画しながらついてきた。そして、録画を中断してトーストとコーヒーを注文した。  テーブルに着いて定食を食べながら佐介は言う。 「今日はこれで帰るよ。また明日撮影してください」 「どこに宿泊してる?」  真理はトーストをかじりコーヒーを飲んでいる。 「駅前の、ホテル長野」 「叔母の店の近くだ。叔母は宝石店を経営してる。新聞社への帰り道だから送ってゆくよ」  真理はトースを食べ終えてコーヒーを飲み干した。 「片づける」  佐介は定食を食べ終えて、真理の申し出に返答しないまま、彼女のトレイを手元に引いた。 「ありがとう」  真理は録画を再開した。  席を立って、佐介は自分のトレイと真理のトレイを持った。テーブルを離れて、食堂に隣接した厨房の下膳口へトレイを運んだ。厨房の中年の女と目が合い、ごちそうさま、と挨拶した。女は微笑みながら、真理が録画していることについて身ぶりで何か質問しようとしたが、何を訊きたいのかわからないので佐介は会釈を返したおいた。その間も、真理は録画しながら佐介を追ってくる。 「ホテルから難なく来られたから、ここからホテルへ帰るのも確かめておきたい」 「試験の間、あなたを送迎するよ。  朝はホテルから密着してあなたの一日を取材し、取材が終えるのはあなたの試験が終了して帰る時だから、録画が終了したらあなたを送るよ。   取材費を払う余裕がないから、こんなことしかできないんだ」  申し訳なさそう真理だ。佐介は少なからず驚いた。 「密着取材で、取材費を払うことがあるんだ?」 「取材費を払う場合やいろいろだよ。  どうする?ホテルは叔母の店の向い側だ。新聞社へ帰るとき、叔母の店の前を通るんだ」 「それなら、試験中の送迎をお願いする。試験は九時からだ。八時にホテルに迎えに来てほしい」  小田真理は録画を中止した。食堂のドアだった。 「八時に私がホテルに現れなかったら、バスで試験会場へ行ってね」 「それなら、七時五十分にしてほしい。長野駅発のバスが八時に出るんだ。今朝はその時間のバスで来た」 「いいよ。そうと決ったら帰るベ!叔母の店に寄るべ!」  小田真理は訛ってそう言い、駐車場へ歩きはじめた。ここで郷里の方言を聞けるのは、ちょっとした驚きだ。佐介は、これで安心して受験できそうだ、と思った。
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