八 姐御

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八 姐御

 五月上旬。連休半ばの五時過ぎ。 「ああ、サスケ。着換えを届けてくれ。忙しくて帰れそうにないんだ。ジーパンとポロシャツとトレーナーも頼む。靴下もだぞ。洗面具もだ。  あとは・・・、化粧品だ。わかるかな・・・」 「ああ、わかるさ。いつも使ってる化粧ケースを持ってくよ」 「それでいい。ノブチンに車をまわしてもらうべ」 「急ぐのか?」 「急がないよ」 「それなら俺が届ける。晴天だ。自転車なら十分で行ける」  信州信濃通信新聞社まで三キロ弱だ。 「気をつけて来てな。夕飯作ったんか?」 「まだだ。世間は連休だから、それなりに作ろうと思ってた」 「ゴメンな」 「気にすんな。仕事が仕事なんだから」 「じゃあ、頼む」 「今五時過ぎだから、五時半前後に届けるよ」 「気をつけてな」 「はいよ」  通話が切れた。佐介はショルダーバッグに真理の着換えと衣類と洗面具を詰めた。  クソッ、化粧ケースが入らない・・・。  トレッキングバックに全てを入れ換えて背負い、ドアを施錠して家を出た。  ガレージから愛用のツーリングバイク(自転車)を引き出して、ガレージを施錠した。  腕時計は午後五時二十分だ。佐介はツーリングバイクを走らせた。  信州信濃通信新聞社は、真理に連れられて何度か訪れている。  道に迷うことなくツーリングバイクで狭い路地を走り、五時半過ぎに信州信濃通信新聞社に着いた。 「小田真理に着換えを届けに来ました・・・」  玄関ホールで受付女子に事情を話した。 「弟さんね。真理さんに似てるわね。五階の社会部よ。持っていってあげてね」  受付女子が佐介の説明を最後まで聞かずに微笑んだ。佐介は一礼してホールからエレベーターに乗った。真理が佐介のことを弟と話しているのではないのはわかっている。女が勝手に弟だと思いこんでいる。  五階の廊下は人が行き来して、社会部から大声が飛びかい、連休の夕方とは思えない喧騒が満ちていた。 「何か用ですか?」  ハンカチで手を拭きながら、中年の男が廊下を歩いてきた。胸に、『社会部編集長 田辺文章』とネームプレートがある。 「小田真理に着換えを持ってきました・・・」  佐介がそこまで話しただけで、田辺編集長は、 「小田君の弟だね。中に入って本人に渡すといいよ」  開け放ったドアから、社会部の東側の窓を背にしたデスクを示した。  うず高く積まれた資料の山の間から、薄茶の長い髪を束ねて捻り、タニシの殻を後頭部に付けたようにしている黒縁メガネの真理が見えた。忙しいと言っていたからそれなりに緊張して仕事をしてると思ったが、真理から感じられるのは、集中して何かを考えている気配だけだった。この様子なら、苛立ちや憎悪など負の緊張状態は残らないだろう・・・。  ドアに現れた佐介を見つけ、真理が手を振った。佐介は他の者たちより頭一つ分背が高い。どこにいても、真理は佐介を見失わない。佐介は社会部に入って、社会部全員の視線を浴びながら通路を歩き、真理にトレッキングバックを渡した。 「ありがとうな。とりあえず確認するぞ」  真理はトレッキングバックの中を確認した。 「これでよし。サスケ。飯にしよう。地下の食堂へ行こう」  トレッキングバックを椅子に置いて、真理は通路をドアへ歩きだした。佐介は、ふたたび社会部全員の視線が真理と佐介に注がれるのを感じた。佐介を引きつれて歩く真理は、さしずめ、用心棒を従えて歩く姐御のようだろう。  地下食堂の食品サンプルを見て、 「好きな物を頼め」  と真理が言った。休日返上の夕刻のため、メニューは一品物に限られていた。 「ラーメンとカレーとカツ丼」  食券売り場の中年の女に伝えた。 「あたしの分も注文したんか?」  真理が佐介の顔をしげしげと見ている。 「何を食う?」  佐介はさりげなく訊いた。真理さんの分は注文してない、なんて言おうものなら、なんて気が利かないんだ、なんて喚きだすのがオチだ。 「カツ丼とラーメンだな」 「カツ丼とラーメン追加してください」  佐介は財布から食券代を出して中年女に渡した。 「弟さん、大きいから、真理ちゃん以上に食べるよね~」  女が佐介に食券をよこして微笑んでいる。真理が紹介したわけでもないが、どこへ行っても佐介は真理の弟と勘違いされる。弟でなければ従弟だ。  佐介は配膳口で食券と交換に、ラーメンとカツ丼とカレーが乗ったトレイと、カツ丼とラーメンが乗ったトレイを持った。真理が座っているテーブルに二つのトレイを置いて、テーブルの椅子に座った。 「なあ、奨学金の結果はどうなったん?」  真理はラーメンのスープ飲んで、勢いよくラーメンをすすった。佐介が先月面接した奨学金制度の結果を気にしている。面接したのは長野市が設立した返還無用の給付型奨学金制度だ。『大学卒業後は地元に定住し、十年以上、地元企業に従事すること』と条件付きだ。 「この連休明けに結果が出るよ」  佐介もスープを飲んでラーメンをすすった。 「審査員は誰だった」  真理は話しながらラーメンをすすっている。 「市のお偉方」  佐介もラーメンをすすった。 「市長や教育委員長や、市の財界人や知識人か?」  真理がスープを飲み干してラーメンを食べ終えた。今度は丼を持って、カツ丼を食べはじめている。カツとご飯が交互に真理の口へ消えてゆく。 「そんなとこだと思う・・・」  佐介はラーメンを食べ終えた。 「育善会総合病院の遠藤悟郎院長もいたか?」  真理が箸を止めた。じっと佐介を見ている。 「メガネをかけた、ごま塩頭の、タヌキみたいなオッサンか?」  佐介はカツ丼の丼を持った。カツを一切れ口に入れた。まあまあの味だ。 「そうだ。タヌキとはうめえ表現だな。タヌキに気に入られたか?」  真理のカツ丼が半分くらいに減っている。 「面接の間、タヌキは気分良さそうに、ずっと笑ってたな」  佐介は箸でご飯とカツをまとめて摘まんで口へ入れた。 「気に入られたな。合格だぞ!」  真理は丼を口に当てて、ご飯をかき込んでいる。食べ終えるみたいだ。 「タヌキが笑うと合格というのは、タヌキが合否の決定権を持ってるんか?」 「タヌキは市政と市の財界に口出ししてうるさいんだ」  真理はカツ丼を食べ終えて、まだ手をつけていない佐介のカレーを睨んでいる。 「食ってもいいよ」  佐介は丼をテーブルに置いて、カレーの皿をテーブルの真理の前へ押した。 「半分もらう」  スプーンを取ってカレー食べはじめた真理だったが、あっという間にカレーを平らげてしまった。このくびれた腰とお腹のどこにあれだけの食品が入るのか不思議だ。 「何だ?なんかおかしいか?」  真理が佐介を見つめた。佐介は丼を持ったまま呆れるように真理のお腹を見ている。 「うん、三つも食ったのに、どこに入ったのかなと思ったんだ。食う前と変らないから」  佐介は丼のカツを食べた。 「そう言われればそうだな。どこにいったんかな・・・」  真理はお腹を撫でている。  食ったラーメンとカツ丼とカレーは胃の中だろう。ブラックホールがあるわけじゃあるまいし、ほかにどこへ行くもんか・・・。 「あたしは骨盤が安産型で、妊娠してもお腹が大きくならないとお袋が言ってたな。食い物も同じようなもんだべ」  真理が撫でているのはヘソから下だ。そんなところに食った物があるわけがない・・・。 「さて、晩飯も食ったから帰るよ」  佐介はカツ丼を食べ終えて立ちあがり、二つのトレイを持った。 「ありがとう。届け物してもらって、晩飯まで食わしてもらったな」  真理は飯代を払う気はないらしい。佐介が二つのトレイを下膳口へ置いて戻ると、 「飯代は借りとく」  真理は佐介を従えて食堂を出た。  真理は一階の玄関ホールまで佐介を従えてゆき、 「明日の夕方は帰る予定だ」  受付けの女たちの視線を気にすることなく 「気をつけて帰れよ」  佐介の尻をポンポン撫でるように叩いている。この状況はいつになく機嫌が良い証だ。姐御肌の真理が人前で示す愛情表現だ。 「ああ、仕事、がんばってくれ」  佐介はツーリングバイクに乗った。 「じゃあね」 「うん」  真理に見送られて、佐介はツーリングバイクをスタートさせた。なぜか田辺文章編集長のネームプレートが佐介の記憶から消えなかった。
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