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ナツは楽器について詳しくない。
だから、今鳴っている音がどの楽器の音か分からない。
けれど、この『音』が好きだと、なぜかそう思った。
「……ねえ、はるちゃん、この音ってなんの楽器なん?」
「ナツさんや、そう言われても悲しいかな。この状況じゃ分からんて」
4階から見下ろすわずかな距離でさえ陽炎が舞う中、吹奏楽部の部員たちは色とりどりのタオルを首や頭に巻いて音色を奏でていた。両の手で数えきれない部員たちが、高く昇った太陽の明かりで欠片しか残らない日陰で演奏しているこの状況では、確かに指示語でニュアンスは通じないだろう。
ナツは耳を澄まして、音のフレーズを声でなぞる。
「ほら、このパラパラパラパラパーって音」
「ん? いやナツさんや、もしかしてその音がなんの楽器の音かご存じない? かなーりメジャーな楽器やと思うんやけど」
「うん、ちょっと分からんなー、って」
笑ってごまかすナツに、はるは呆れながら答えた。
「これはブラスの花形のトランペットや。いくらなんでも名前くらいは聞いたことあるやろ」
「え、この音、トランペットなん?」
はるの言葉にナツは驚いた。いくらなんでもナツだってトランペットの音は聞いたことがある。それでも気づけなかったのは、ナツが「この音」を聞いたことが無かったからだ。
とても明るく空に溶け、太陽にだって届きそうな音。
それは、少なくてもナツがこれまでの人生で聞いてきたトランペットの音とは明らかに質が異なっていた。
「ねえはるちゃん、トランペットって吹く人によって音が変わるん?」
「そりゃね、変わるやろ。吹奏楽器なんて人そのものを楽器にするためのもんやし。トランペットなんてその最たるもんや。音楽やってる身からすれば、一音聞いただけで演者がどれくらいのレベルか分かるで」
「そうなんや。はるちゃん、私、この音好きや。誰が吹いてるか教えてくれん?」
はるはナツの言葉を受けて、え、あー、うん、どないしよ、と珍しく迷った後でしぶしぶ音の主の名前を教えてくれた。
「……この音はな、2年A組、みずのあきと、ってやつの音や。噂くらいは聞いたことあるやろ?」
ナツは頷く。確かにナツはその名を噂で知っていた。
みずのあきと、彼には父親が居ない。
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