あちら側

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「心残りが?」 「ないわ、そんなもの」 だって、心ごと、命を落としてきたんだもの。 ないはずの心が痛んで、私は命が止まった胸元あたりを、くしゃっと掴んだ。 「そうですか。でも、あなたの影は、ずいぶん長い」 男が指さした地面を振り返れば、長々し尾を引く、黒い影。 私の足元から伸びた影は長く後ろに続き、ずっと下ってきた階段を黒々と覆っていた。 「断ち切れなかったのでしょう」 可哀想に、と男は言った。 「その長い影」 「え?」 「そんなモノをぶら下げて、一体どこまで行くつもりです」 このまま階段を下っていけば。 男の指が、どこまでも続く階段を、すいっと示す。 「辿り着くのは、地獄の底」 灰色のコンクリートの階段は、果てもなく伸び続け、真っ暗な点へと消滅していく。 くらりと眩暈を覚え、男の肩に掴まった。 薄くて脆く見えた肩は、思いの外、がっしりとして危なげない。 思わず見上げると、フードの中から狼狽えるほど整った目が、私の眼の底を見透かした。 「影を辿って行きましょう」 すいと背後を見上げた顔につられて、下りてきたばかりの、遥か遠くまで昇っていく階段を振り返った。 「死人に影は、ないモノなのです」 頂は見えず、黒い影が伸びる先は、地獄の底と同じくらいに遠く暗く見えた。
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