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「ありがとう」
一君の怖い目が、一瞬うろたえたように視線をさ迷わせた。
こんな言葉が唐突に出てしまい、わたしは唖然とし――気がつくと、涙がぼたぼたと落ちていたのだった。
父が亡くなり、兄が江戸を発って以来、わたしはきちんと泣いていなかったのだ。
たった五歳の子供が現実を受け入れ、自分の寄る辺なさを認めるには、相当な時間が必要なのだ。
ちっとも似ていなかった父、だけどわたしには優しかった。
無性に涙が出てしゃくりあげた。
彼がどんな顔をしているのか、涙で曇った目では見ることができない。
しゃくりあげながら、わたしはもう一度言った。
「ありがとう」
盛大な溜息が聞こえた。
わたしは片手を握られ、ぐいと引き上げられた。
一君の怖い横顔がわたしの額の上にあり、わたしは彼に手を引かれていたのだった。
「家に帰れ。俺が送る」
わたしを引っ張って一君は廊下を歩き玄関を目指した。
居間の前を通りかかった時、何事かと顔を出した山口のおばさまが目を丸くした。
「わたしが送るわよ」
と、勝姉さんが顔を出したが、一君は足も止めずに言い返した。
「俺が送る。今後は俺が送る」
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