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引きつった声でキタノは言った。合図されたように、下卑た嘲笑が周囲から上がった。私は立ち上がった。これから彼が何をするか、確かな予感があった。
彼は右手を離した。残った左手をキタノが振り払うのと、彼の右拳が弓を引き絞るように肩口に寄せられるのが同時だった。
私はその拳にとびつき、叫んだ。
「やめて、雪人。あんた、ピアニストなんでしょ」
「おまえ、何?」
キタノが私を見下ろす。
「もしかしてオゴエのこと好きなの? うっわ、気もちわるぅ」
私の手のなかで雪人の拳が震える。
「紙でピアノごっこするしかできない底辺野郎が、そんなもんに成れるわけないだろう。中卒で就職して一生底辺さ。本物のピアノになんて、一生さわれないまま終わッ――
キタノが吹っ飛んで後頭部を打った。
キタノのセリフを断ち切ったのは拳だった。
それは、私の、拳だった。
キタノの言ったことは真実かもしれない。時間がたったあとで、私は思う。彼がどうすれば本物のピアノを弾けるようになれるのか、私にはその道筋が見えない。
俺は昔も 今もピアニストだ。
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