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「じゃあ、ピアノで見返してやりなさいよ。音楽の先生に言って、音楽室のピアノ、弾かせてもらえばいい。ほんとうにまだ弾けるんでしょ。一発で、みんなの見る目が変わると思うけど」
「俺はそんなことはしない」
「どうしてよ」
「皆を見返してやろうなんて気持ちで弾いたピアノで、誰の心をどんなふうに動かせるっていうんだ。ただ巧いだけのピアノは、ただ『お上手ですね』と言われるだけだ。俺が弾きたいのは、おまえを笑顔にするようなピアノだ」
不意打ちだった。私は固まってしまった。
「まだ前の家に住んでた頃、おまえはよく俺の練習を見にきてたよな。うまく気持ちを込めて弾けたときには、振り返ったときに最高の笑顔があった。お前は忘れたんだろうが、俺は忘れてない。あの笑顔は俺の目標で、価値基準で、今でも宝物だ」
「ば、馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、何言ってんの気持ち悪い。やめてよ、そういうの」
真っ赤になったあげく私は暴走した。そんな私を、彼は鼻で笑った。
そういうと思ったよ、天井を見つめて、低い声で言った。
また沈黙が落ちた。頭の中や胸の中では、なんだか分からないものがごうごうと音をたてて駆け巡っていた。私は困り果てたあげく、
「帰る」と言って立ち上がった。
要するに私は、彼から逃げ出したのだ。
その日はその後何事もなく過ぎた。
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