013.花を拾った夜(1)

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 茜が退いて赤紫に移ろう天頂付近を、喧しくヘリが一台飛んでいく。恐らく、大会を主催する新聞社のものだろう。  舞台となる東の空は、赤紫から既に紺色へ、ゆるゆるとグラデーションを描いている。その中を、都会の人工灯で黄ばんだように照らされた低い雲が、幾つか曖昧に流れていた。 「譲治さん」 「ああ、どうも」  促されて俺は、繊細なカッティングに鮮やかな青が映える江戸切子の小さなグラスを持ち上げた。相手の青年は涼しげな二重を綺麗に細め、大吟醸を注ぐ。ふくよかに香る液体を口に含めば、サラサラと喉から心に染み渡る。上質な酔いがフワリと駆け抜けた。 「優華さんも」  青年は微笑んだまま、濃紺の小千谷ちぢみから日焼けした逞しい腕を伸ばし、俺の左隣の美女――優華のグラスも酒で満たした。 「すみません、いただきます」  普段はもてなす立場の優華は、気配りを抑えて、今宵は客人然と振る舞っている。  会釈すると、彼女は切子グラスに唇を寄せた。身を包む藍色の浴衣は、有松絞りの小花流水模様。可愛らしさと艶っぽさが同居する、品の良い仕立てだ。その襟元から覗く細い項には、既に微かながらも桜色が差している。  彼女とて、わが社が有する会員制高級クラブ『クラブ優華』に君臨するママである。決して酒に弱い質ではないのだが。  青年が勧める美酒は、すっきりした飲み口に誘われて、うっかり油断すると酔いに身体を弄ばれそうな手強さがある。柔和な外見に反して、強固な信念を貫く、彼自身に似てなくもない。 「ご遠慮なさらず、寛いでくださいね」  右端から微笑みかけてきたのも、優華に劣らずの美女だ。ロングストレートの黒髪が、シャープな顔立ちによく似合う。  以前見かけた彼女は、ビリジアングリーンのドレス姿でグランドピアノの前にいた。  今宵は、落ち着いた京紫に紅色の朝顔が華やかな浴衣姿で、青年の横で凛と咲いている。 「ありがとうございます」  優華の柔らかな声を浚うかの如く、川面を一涼の風が渡った。それを合図のように、屋根から列を成して下がっていた赤提灯が一斉に消えた。  周囲も同様で、光源が無くなると、いつしか沈殿していた闇に包まれていた。時が昔なら、蛍火が飛び交いそうな気配である。
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