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4
生田係長の言葉を引きずりながら、私は再び持ち場に戻った。強行の二人が応援ではなく自らの手で犯人を逮捕しようとしている可能性があると知って、こめかみが痺れるような怒りがこみ上げてきた。
――あの笑い、やっぱり
渡辺巡査部長の含み笑いを思い出す。あの笑いは、生活安全課を馬鹿にする笑いと同時に、何かを狙っている笑いだった。
その何かというのが手柄の横取りだ。後方から監視するふりして、実際はNに照準を合わせていた。そして、隙を見て私たちよりも先に逮捕する魂胆なんだろう。
その上で、私たちを本当の意味で馬鹿にするつもりなのかもしれない。応援者に手柄を横取りされたとなると、生田係長の班は面目丸潰れだ。そう考えて、渡辺巡査部長は一人にやけていたに違いない。
なぜそんなことを考えたのかはわからない。忙しい中に押しつけられた他部署のお守りに対する嫌がらせか、あるいは、刑事独特の異常なまでに結果に対する執着心からきた、ある種の歪んだ感情のせいかもしれない。
いずれにしても、 二人より先にNを逮捕しないといけないことには変わりなかった。その為には、Nが女子トイレに入るところを押さえるか、スマホを仕込んだクロックスを女性のスカートに忍ばせるところを押さえなければいけない。
そう考えて、私はあることに気づいた。女子トイレに入る所を押さえる時は、間違いなく美奈子と一騎討ちになる。
――美奈子
唇をきつく結び、美奈子の名前を心の中で叫ぶ。いつの間にか手のひらが汗で濡れていた。心地好かった空調も、今は効いてないのかと思うくらい体が熱く感じられた。
犯人に声をかけたことは職質以外にない。たまたま声をかけたら悪さをしていたというわけだから、狙ってやるのはこれが初めてだった。
でも、それでも負けたくなかった。同じ目標に向かいながら、いつも私を馬鹿にしてくる美奈子。同期としても、同じ刑事を目指していた仲間としても、美奈子には負けたくなかった。
額に感じる汗を拭いながら、じわじわと奥のトイレに向かうNに食らいつく。Nも一歩歩く度に警戒心が増しているみたいに、何度も周囲に目を向けていた。
店内は高い陳列棚が狭苦しく並んでいて、一歩売り場に入れば、周囲の状況が見えなくなる。そんな状況だから、近づき過ぎると警戒されるし、離れると美奈子に遅れを取りかねない。美奈子がどこにいるのかはわからないけど、すぐ近くで息を殺している気配だけは伝わってきた。
Nが通路を曲がる度に距離を詰める。ジグザグに動きながらも、Nは奥のトイレに近づいていた。
と、売り場の通路でNが立ち止まった。私は咄嗟に別の棚に身を隠した。
その一瞬のことだった。一息飲み込んで覗き込んだ先に、Nの姿が見えなかった。
――しまった
心の中で舌打ちして、私は消えた背中を早歩きで追いかけた。走ると目立つからやるなと厳しく言われたことを思い出し、焦る気持ちを抑えつけて売り場を足早に曲がった。
けど、そこにはNの姿はなかった。今いる場所は、ちょうど店舗の中央あたり。次の棚で食品売り場は終わり、雑貨売り場に変わっていく。その先にトイレがあり、Nが雑貨売り場を徘徊しているのか、それとも一直線にトイレを目指しているのかは不明だった。
焦りと緊張で喉がひりついていた。生田係長に電話したけど、話し中でつながらなかったので東田に応援を要請した。
その電話を切ったところで、若い女性がトイレに入っていくのが見えた。どくんと鼓動が跳ね上がると同時に、私を笑いながら横目で見つめる美奈子が姿を見せてきた。
「あっ」と口にした時には、もう手遅れだった。売り場を抜けて通路に出た時には、Nは雑貨売り場を徘徊することなく一直線にトイレへ向かっているところだった。
絶望的な思いが、そのまま目前に広がった。棚の影で息を潜めていた美奈子は、Nを確実に射程圏内にとらえていた。このままNが女性を追うようにトイレへ入れば、そばにいる美奈子が先に声をかけてしまう。
意識が半分以上霞んでいった。騒がしかった店内の音楽も耳に入らなかった。Nが歩みを速めてトイレに入った瞬間、美奈子が売り場から飛び出した。
――え?
やられたと思った矢先、Nは予想外に男子トイレへと姿を消した。そのため、空振りに終わった美奈子は、やり過ごすかのように女子トイレへと姿を消していった。
――助かった?
茫然としたまま、トイレの入り口を見つめた。けど、すぐに気を取り直してトイレへ向かった。Nは周囲を警戒する為に男子トイレに入っただけかもしれないから、女子トイレに入る可能性は十分にあった。
そう考えていたところに、今度は渡辺巡査部長が男子トイレに駆け込むのが見えた。
――どういうこと?
突然のことに唖然としていると、しばらくしてNが渡辺巡査部長と入れ替わるようにトイレから出て来て売り場に戻っていった。その後ろで、トイレから出てきた美奈子に同じくトイレから出てきた渡辺巡査部長が耳打ちするのが見えた。
――何が起きてるの?
意味を理解できない状況が続くなか、再び美奈子がNの追尾を始めた。その顔は既に刑事の顔になっていて、これから確実にNを逮捕しようという意気込みさえ伝わってきた。
パニックになりそうな頭を落ちつけて、状況を確認する。Nは男子トイレに入り、その後を渡辺巡査部長が追った。そして、渡辺巡査部長は美奈子に何かを伝えた。
――ああ!
その行動の意味がわかった瞬間、私はすぐにNの後を追った。Nの犯行手口は、シャッター音を出さないように予めビデオ撮影モードにしたスマホをクロックスに仕込むことだった。
つまり、さっきNがトイレに入ったのは、その仕込みをする為だったということだ。
そして、渡辺巡査部長はそのことに気づき、Nの仕込みを確認する為に男子トイレに入った。その後に美奈子へ指示を出したということは、高い確率でNはスマホをクロックスに仕込んでいるはず。
――いた!
売り場を早歩きで移動した矢先、キッチンコーナーにNの姿が見えた。しかも、売り場にはフライパンを両手に真剣な眼差しで吟味している若い女性客もいる。女性には失礼だけど、都合がいいことに女性は短いスカート姿だった。
棚の陰からNの様子を伺う。その瞳には、はっきりとした欲望の色が見えた。
確実にやる。
はっきりとした手応えがあった。それだけじゃない。位置関係も私に有利に働いていた。反対側の棚にいる美奈子の位置と私の位置を比べると、私の方が有利だった。
――いける
そう確信して両手を握りしめた時だった。
「浅倉、何やってんだ」
突然、怒号と共に私の体は棚の陰から通路へと引き剥がされた。
「なぜ電話に出ないんだ」
驚いて見上げた先には、明らかに怒っている生田係長の顔があった。
「あ、すみません」
問われて携帯を見ると、生田係長からの着信履歴があった。
「もういい。状況は」
生田係長の怒り声が頭ごなしに降り注ぐ。私は縮こまりながらも、何とか状況を説明した。
「見たのか?」
「へ?」
「お前の目で、スマホが仕込まれているのを確認したのかと聞いている」
怒りの中に焦りを混ぜたような声だった。そんな生田係長の迫力に負けて、私は力なく首を横にふった。
「でも、渡辺巡査部長が確認してます。それで、美奈子に指示をだした――」
「中止だ」
「え?」
「自分の目で確認していないなら、現逮は許可しない」
頭を殴られるような言葉に、私は体中の血液が逆流するのを感じた。
「でも、目の前に犯人がいるんですよ。そして、今犯行に及ぼうとしているんですよ。なのに逮捕しないなんて」
「駄目だ」
私の言葉を、生田係長の強い口調が容赦なく遮った。
「なぜですか?」
諦めきれない私は、勇気を出して生田係長に懇願した。
「負けたくないんです。美奈子には、絶対に負けたくないんです」
「無理だな。勝敗はもうついている」
私の思いを、生田係長があっさりとはねのけた。
「やっぱり、エロバカ係長なんですね」
「あ?」
「美奈子の方が美人だし、胸もあるし、私なんかより魅力的ですもんね」
気がつくと、私の頬を冷たい涙が流れていた。こうもはっきり拒絶されると、嫌でも比較されているんだと感じてしまう。
「何を勘違いしてんだ」
「だって、そうじゃないですか。張り込み中なのに女の人を見ていたり、尾行だって、渡辺巡査部長はトイレに入ってまで確認しているのに、係長は何してたんですか」
怒りと悔しさが堰を切ったように溢れだし、私は構うことなく思いをぶつけた。
「女の人を見ていた訳じゃない」
生田係長の怒り顔に、僅かな影が差した。睨み付ける瞳にも、怒りとは別の悲しみが見えたような気がした。
「思い出していただけだ。それに、ちゃんと尾行していた。ただ、相手は渡辺だったけどな」
そう呟くと同時に、生田係長が視線を美奈子に向けた。その瞬間、生田係長の瞳に宿る悲しみが、私にではなく美奈子に向けられていることに気づいた。
視界の隅で、Nが右足を女性のスカート下辺りに差し出すのが見えた。
待っていたとばかりに、飛び出してきた美奈子の姿が、悔しさと敗北感でスローモーションに見えた。
Nの肩を叩き、警察手帳を見せる時の勝ち誇った美奈子の表情と、Nの驚愕の表情がやけに遠く感じた。
だけど、そこから先は予想外だった。美奈子に指示されてNが脱いだクロックス。その中に、あるはずのスマホがなかった。
今度は美奈子が驚愕する番だった。あるべきスマホがなかった以上、場を支配した空気は、捜査の空振りを告げることになった。
逮捕劇の幕はあっさりと降りた。固まる美奈子の背後に、カーテンコールをするかのように現れた渡辺巡査部長の歪んだ笑みを見て、渡辺巡査部長の真意が判明した。
渡辺巡査部長は、最初から生活安全課を嵌めて笑い者にするつもりなどなかった。
歪んだ笑みを浮かべる渡辺巡査部長の狙いは、信じられないといった表情で動けなくなっている美奈子の失態だった。
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