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7
Nの送検が終わった後も、生活安全課は相変わらずの日常だった。毎日各交番から送られてくる不審者情報に目を通したり、各種書類の整理をしたりと、代わり映えのない日々が始まろうとしていた。
生活安全課の部屋を見渡してみる。雑談に熱くなる人、電話を首に挟んでパソコンを睨み付ける人、競馬新聞の上で寝ている人、怪しげな人形の手入れをしている人など、穏やかな日常がみんなによって作られていた。
でも、本当はみんな苦しんでいる。被疑者を逮捕することの意味をわかっているからこそ、こうした一時くらいは修羅場を忘れたいんだなと思えた。
――あ、美奈子
廊下を横切る美奈子の姿を見つけ、私は美奈子の後を追った。美奈子がトイレに入ったところで、前方から渡辺巡査部長が雑談しながらこっちに来るのが見えた。
とりあえず女子トイレに逃げ込むと、化粧台の前に美奈子が立っていた。
――それより、この間空振りだったんだって?
――ああ、まったくあの馬鹿女のせいでひどい目にあったよ。
突然聞こえてきた声は、渡辺巡査部長の声だった。壁一枚挟んだ向こうから、これみよがしに話す声は、入口近くに立つ私と美奈子には筒抜けだった。
――何もできないくせに強行の刑事面しやがって。刑事になったのも、実力じゃなくて人事部と寝たからだろうが
吐き捨てる渡辺巡査部長の言葉に、美奈子の肩が小さく震え出した。それを見た私は、渡辺巡査部長のもとに駆けて行こうとした。
でも、そんな私の手を美奈子が力強く握りしめてきた。
「大丈夫。私は絶対に負けないから」
振り返った美奈子の顔には、流れ落ちる涙があった。懸命に肩を震わせて堪えようとしているけど、美奈子の涙は流れ落ち続けていた。
「でも」
強行との合同作戦の空振りについては、生田係長の根回しによってうやむやになっていた。それをいいことに、渡辺巡査部長は好き勝手言っていることが許せなかった。
「私、泣いてなんかないから。強い刑事になるって、決めたんだから」
震える声で呟く美奈子の姿に、初めて会った時の美奈子の姿が重なった。
「私、刑事になりたいんだ」と、目を輝かせて語っていた美奈子が、今は刑事であり続けることに孤軍奮闘していた。
「美奈子、私ね、被疑者を逮捕したの」
美奈子の姿に触発されて、私は胸に突き刺さっていたものを吐き出すように口にした。
「それが何? 警察なら当たり前じゃない」
「うん。ただね、泣き叫ぶ女の子の前で父親に手錠をかけたの」
そう説明すると、眉間にしわを寄せていた美奈子の顔に、驚きが広がっていった。
「あんた――」
「ねえ美奈子、警察って何だろう?」
私の問いかけに、美奈子は黙っていたけど、しばらくして掴んでいた手を離した。
「あんたがそんな弱気だと、私、張り合いがなくて困るんだけど」
「え?」
「警察が何かってのはわからない。でも」
美奈子は乱暴に顔を洗うと、ハンカチで顔を拭きながら、いつもの強い顔立ちに戻っていった。
「いつか、答え合わせができるといいね」
そう言い残して、美奈子は猛者揃いの一課の部屋へと歩いていった。
――美奈子
一課の部屋に消えていく美奈子の背中に、私はため息とエールを送った。素直じゃない私のライバルは、今日もあの部屋で答えを探し続けるんだろう。
私は「えい」と気合いを入れ直し、生活安全課の部屋に戻った。その途中、手から血を流した生田係長と出会った。聞けば、押収品のDVDのタイトルに気をとられて階段を踏み外したという。
いつも通り平常運転の生田係長は、そのまま奥の仮眠室に治療しに行った。
「生田、いるか?」
生田係長が消えたのと引き換えに、機動捜査隊の班長、通称般若が野太い声と共に現れた。
「係長なら天罰が下って怪我の治療中ですけど、どうかしましたか?」
「どうかしたもないぞ。あの野郎、一課の部屋に来るなり、渡辺を殴り飛ばしやがったんだ」
「へ?」
「よりによって俺が署に寄っているときに騒ぎを起こしやがって。何か合同捜査で気にくわないことでもあったのか?」
般若の問いに、私は白々しく首を傾げて知らないふりをした。
生田係長は美奈子に代わって渡辺巡査部長を殴ったんだろう。それを転んで怪我したなんて嘘ついてことに、私はおかしくて声を出して笑ってしまった。
「何がおかしいんだ?」
「あ、いえ。ただ、生田係長が殴るってことは、よっぽど悪いことを渡辺巡査部長はしたんでしょうね」
「だろうな。けどよ、もう若くないんだから昔みたいな無茶はよせって伝えておいてくれ」
「生田係長、昔は無茶してたんですか?」
「なんだ、知らないのか? 生田は昔、県警一の暴れん坊で、一課じゃ有名な強行のエースだったんだぞ」
般若はそう教えてくれると、ちゃんと面倒みろと言い残して部屋を出ていった。
――県警一の暴れん坊に強行のエースね
私は、仮眠室でメロリンから「いたいのいたいのとんでけー」と言われながら、消毒液に悲鳴を上げる生田係長に目を向けた。
――私には、エロバカにしか見えないんだけどね。でも、ちょっとは見直してもいいかな
メロリンと馬鹿なやりとりを繰り広げる生田係長にため息をつきながらも、私は無造作に机に積み重ねられている書類へ手を伸ばした。
そして、また一日が始まる。
きっと、こんな感じで毎日が過ぎるんだろう。
だから――。
美奈子、いつか答え合わせしようね。
~第二章 逮捕の瞬間は誰を想う? 完~
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