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  季節外れの寒さを感じる四月の某日。  高卒で警察官になって六年。交番勤務で日々悪戦苦闘していた私に渡されたのは、希望の刑事課ではなく生活安全課への切符だった。  私の初配属となるS県警嶋中島署(しまなかじましょ)は、人口八万人を担当する比較的大きな署だ。とはいっても、田舎特有ののどかな空気と、一駅隣にある割と発展した街の喧騒がぶつかり合う地域でもあるため、県警内でも事件発生率が高い署でもある。  そんな嶋中島署の、しかも警察実務の中でもとりわけ取り扱いが難しいとされる生活安全課に配属となり、初出勤に期待と不安に高鳴る鼓動を抱えながら、私は二階にある生活安全課のドアを開いた。  ドアの先には、言葉にできない独特の喧騒と静けさが入り乱れながら漂っていた。私が配属になったのは、女性と子供の安全を守る対策係。天井から吊り下げられたプレートを頼りに奥へ進むと、机の前で腕を組んだままじっとパソコンを睨んでいる男が目についた。  ――あの人が、生ける刑事の教科書と言われてる生田係長かな?  見た目は四十過ぎぐらいのすらりとした長身だった。刑事にしては珍しく髪は長いほうだけど、顔は割と彫りが深くてイケメンと呼べなくもなかった。係長の席に座っているみたいだから、この人が私の直属の上司になるのだろう。 「ここらへんでシロクロつけようじゃないか」  挨拶をしようとした私を、生田係長の独り言が遮った。モニターには被疑者と思われる女性の全身写真と、事件の調書が写し出されていた。  声をかけるタイミングを失った私は、背後に回ってモニターの資料を盗み見た。覚醒剤絡みの事件らしく、注射器から採取した血液が鑑定中とされていた。  ――被疑者を逮捕する資料を作ってるんだ  真剣に見つめる生田係長の瞳に、少しだけ薄い胸が疼く。ホシを睨む目は別格になると、警察学校時代に教えられた通りの瞳がそこにあった。 「係長、判明しました!」  私の背後から、私と変わらないくらいの若い係員が息を弾ませてやってきた。手には鑑定結果を記したと思われる資料が握られていて、その結果を報告しに来たみたいだ。 「結果は、残念ながらクロでした」  若い係員が、飛び込んでくるなり生田係長に弾んだ声で報告する。その報告に、生田係長は天を仰いだ後、崩れるように項垂れた。 「今度はクロかよ。参ったなあ」  生田係長は頭をかきながら、上下紺色の作業着のポケットから財布を取り出した。  ――あれ? クロなら犯人逮捕できるからいいんじゃないの?  戸惑いながら二人のやりとりを見ていると、生田係長が千円札を取り出し、若い係員が「ごちになります」と拝みながら受け取った。 「クロなら、犯人逮捕になるからよかったんじゃなかったんですか?」  意味不明なやり取りに、思わず言葉が漏れる。ビクッと肩を震わせた生田係長が、椅子を反転させて私に体を向けてきた。 「君は?」 「え? あ、はい、今日からこちらに配属となりました浅倉美香です。よろしくお願いします」  慌て自己紹介をしながら敬礼の姿勢をとった。それを見た生田係長は、私を一瞥した後、面倒臭いオーラ全開で返礼してきた。 「あの、さっきのやりとりは――」  何事もなかったように視線を机に戻した生田係長を、私は慌て引き留めた。 「ああ、賭けだよ」 「へ?」 「賭けてたんだよ。この女性がシロかクロかを」 「え? それって事件捜査のことですよね? クロなら逮捕できるんじゃ――」  そこまで口にしたところで、若い係員が吹き出して笑った。 「何言ってんだお前。担当外の捜査なんか面倒くさくてやるわけないだろ。これは、薬物班から借りた資料だ。それを使って賭けをしてたんだが、見事にハズレて昼飯を奢るはめになったってわけだ」  生田係長の口から出てきた、およそ警察のものとは思えない言葉。さっきまでの真剣な眼差しの理由は、被疑者を逮捕する為ではなく賭けの勝ち負けに熱くなっているだけだった。 「大切な事件資料を使って何やってるんですか!」  あまりのことに、反射的に机を両手で叩きながら生田係長に詰め寄った。驚いた生田係長に更に詰め寄ろうとした私を、小さな咳払いが制止させた。 「まあまあ、落ちついて」  若い係員が千円札をポケットにねじ込みながら間に入る。身長は私よりちょっと高いぐらいだから、男性としては低いほうになる。でも、まあ割とイケメンだから、私はすぐに両手を引っ込めた。 「生田係長って、あの生ける刑事の教科書と言われる、凄腕の刑事だった人ですよね?」  噂で聞いた話では、刑事課時代、担当した事件は全て解決する凄腕の刑事だった。決し事件資料を使って昼ご飯を賭ける人ではなかったはず。  そんな私の気持ちをよそに、若い係員が再び吹き出して笑った。 「確かに生ける刑事と呼ばれていたよ。ただし――」 「おい、よせ。新人なんだから勘違いさせたままにしておけ」  若い係員の言葉を、生田係長が面倒くさそうに遮った。 「今はもう、生けるじゃないんだ。刑事課時代にやらかして生安に来てからは、すっかり変わってしまったんだ」 「え?」 「係長は、生安に来てからは、生ける刑事どころか、賭けはもちろん、職権使って風俗や裏物のアダルトにまで手を出すようになったことから、今ではエロバカ係長とまで呼ばれるようになってるんだよ」  若い係員が笑いを堪えて説明を続ける。生田係長は、腕を組んだまま「迷惑な話だ」と繰り返していた。 「ええ!? じゃあ、教科書というのは?」 「係長が勝手につけたんだ。エロバカじゃ格好がつかないからって、勝手に噂をねじ曲げたってわけ」  そこで耐えきれなくなったのか、若い係員が声を出して笑い転げた。  ――嘘? え? 伝説の刑事がエロバカって、なにそれ  数多の難事件に昼夜問わず身を捧げ、犯人を逮捕してきた父を尊敬し、その背中を追いかけて警察官になった。刑事課ではなく生活安全課に配属となったけど、上司は伝説の元凄腕刑事だったと聞かされて胸が高まっていた。  ――なのに、え? 全然話が違うじゃない!  目の前に広がる予想外の現実に、私は腕を震わせて再び机を叩いた。 「犯人逮捕にみんな精を出してるっていうのに、何やってんですか!」  着任早々、生活安全課の部屋に轟く私の声に、みんなが視線を向けてきた。 「おいおい、俺の階級は警部補だぞ。言葉に気をつけて――」 「私の父は警視ですけど」  睨んできた生田係長を、私は怒りを込めて睨み返した。  最悪だった。  夢にまで見た生活安全課の現実がまさかのこれだった。  あまりのショックに、期待に膨らんでいた私の胸は、現実の胸と同じくらい小さくなっていった。
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