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なんどもまつげをしばたいて、ますます困った顔をして中村は答えた。
「そうだっけ?・・・おぼえとらん」
眉間に縦じわを寄せて片桐は言う。
「あーっ。もう。片桐さんもとんだじじいになったもんだわねっ。自分の言ったことも覚えてないなんてっ」
今度は、本間がしびれをきらして片桐の手からくだんの領収書と書きかけの旅費精算伝票をひったくる。
「もう、後の処理は私しますから、里帰り前にその机、綺麗にしといてくださいよっ」
勇ましくも捨て台詞を残して、本間は足早に去っていった。
「おーう。さすが、しきり屋の本間。肝っ魂かあちゃんみたいだぜ・・・」
既に事務処理を始めた後ろ姿に向かってお気楽にぱちぱちと拍手する片桐を、中村が咎める。
「本間さんに悪いですよ。片桐さん。設計部の事務職の中では、本間さんがいちばん有能なのに・・・」
「え?そうなのか?だって、お前んとこの蒲田さんなんか、勤続十数年なんだろ?」
同じフロアーで片桐の席から数十メートルばかり離れた中村の部署で、事務を務める往年の大女優・三田佳子ばりの美女を思い浮べる。
「ええ・・・。一応そうなんですが、実は未だに旅費精算のシステムを彼女は理解していないらしいですよ」
内緒ですよ、とこころもち顔を片桐の耳元に寄せて中村は声をひそめた。
おかげで、このフロアー内でいちばん事務処理がさばけておらず、期末締めの忙しい時期になると別部署であるはずの本間が、助っ人に出るほどであるという・・・。
「だから、蒲田さん、未だに独身なんだな・・・」
設計部の「七不思議」の一つが、いま、あっさり片桐の目の前で暴かれたのだった。
「つまんねーなぁ。もっと、凄い理由かと思ったのに」
まあ、これはこれで、確かにヘビィではあったが。
同じ仕事を長い期間繰り返していながら、未だにその内容を理解していないとは、ある意味では国宝級の人間であるのだから。
「それより、片桐さん」
中村は、すい、と滑らかな所作で隣の椅子に腰掛けた。
「んあ?」
「明日から里帰りって、本当ですか?」
「ああ。そうだよ。今年はじじいの十三回忌で、どうしても外せなくってな」
片桐は深々とため息をつく。
わざわざ高い飛行機代払って里帰りし、そのうえ面倒な親戚行事が待っているのだ。
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