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「いらっしゃいませ! あっ、こんにちは!」
「こんにちは」
今日は、ついてる。暖簾をくぐって店内に入った途端、目的の相手と目が合った。
藍色の作務衣を身につけた涼やかな立ち姿が、真正面から俺に笑顔をくれている。ちょうど厨房から出てきていたようだ。
「お水、どうぞ」
「辛味おろし蕎麦の大盛。ハモ天をトッピングで」
「辛味おろし蕎麦、大盛にハモ天をトッピングですね。かしこまりました。あの……」
オーダーを復唱したらすぐに厨房に引っ込むのが常の店主だが、なぜか場にとどまり、顔を近づけてきた。
「今日はテーブル席もあいてますが、カウンターでよろしかったですか?」
耳元にその気配を感じた直後、ごくごく小さな声で尋ねられる。
内緒話のような体勢での小声の理由は、他の客に会話を聞かれないようにという配慮だ。俺と反対側のカウンターの端にも、一人で来店してる先客がいる。
店主が俺にこう尋ねてきたのは、以前、あるトラウマのせいで女性が苦手だと俺が話したせいだ。カウンター席は、すぐ隣に女性客が座る可能性もある。だから、この突然の顔同士の密着は、店主の純粋な気遣いからきている。
「構いません。一人ですし。長居はしませんから」
「そう、ですか? 矢代さん。私どもへのお気遣い、いつもありがとうございます」
淡々と答えを返せば、満開の笑みが至近距離でひらめいた。
あぁ……この人の、この表情、本当に堪らないな。
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