第一章 視線

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「お待たせしました。辛味おろし蕎麦、大盛とハモ天です」 「いただきます」 「蕎麦湯は、後でお持ちしますね。ごゆっくりどうぞ」  再び向けられた心地よい笑みだったが、それは、すぐに俺から離れる。次から次へと客が訪れ、店が繁盛しているのだから仕方ない。一瞬でも、俺だけを見つめて笑ってくれたことと、俺も笑みを返せたことで満足せねば。  新たに来店した常連に挨拶する伊澄さんの声を聞きながら、箸を手に取った。左手に水平に箸を乗せてから右の中指で眼鏡のブリッジに軽く触れ、フレーム位置の微調整。食前の習慣になっている動作を済ませて、唇だけで「いただきます」と告げる。  そうして、絶品の蕎麦の味を堪能しつつ、厨房で立ち働く姿に心中で呼びかける。  ねぇ、伊澄さん? 自分で言うのもなんだけどさ。俺ね、すごく優秀なんだ。今まで欲しいと願って手に入れられなかったものなんて、何ひとつ無いんだよ。  だから、あなたも手に入れる。出逢ってから、ひと月経ったし、もういいよな? 行動に移しても。  出逢いから、明日でちょうど三十日。明日の夜、もう一歩、あなたに近づくことにする。  そう、一歩、だ。まずは一歩、距離を縮める。慎重に慎重に、事を進めよう。〝今回は〟、絶対に失敗しない。
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