第一章 視線

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 そのために、女にトラウマがあるなんて嘘までついて、あなたとの接点を作った。  ほんのひと月前から通い出した、常連のひよっ子とも言える俺の来店の時だけ店主自らオーダーをとりに来て、料理も運んでくれている理由。それは、俺のこの嘘のせい。  ホール担当として一緒に店を切り盛りしている自分の母親もトラウマの対象だという認識から、俺が暖簾をくぐったらどんなに忙しくても厨房から出てきてくれる。  なんて誠実な人だろう。いくら客商売でも、普通はここまでしない。出勤日は必ず足を運んでいるとはいえ、まだ常連とは言い難い俺のために。  伊澄さんは、驚くほどの誠意と気遣いの持ち主だ。  そして、それは逆に、人を疑うことを知らない純粋な性格だということでもある。つまり、チョロい。半端ないチョロさだ。蕎麦職人になる前は会社勤めをしていたと聞いたが、とても信じられないくらい、世間慣れしていない。  そんなあなただから、俺に少しずつ囲い込まれていることに気づいた時には、きっともう遅い。男同士だから、なんて言い訳すら思い浮かばないくらい、ずっぽりと深みに取り込む予定だ。  その記念すべきスタートが、明日。ふふっ。楽しみだ。明日の夜が、とても楽しみだよ。
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