秀次切腹

2/9
前へ
/9ページ
次へ
秀次は謀反の疑いは否定して吉田兼治に袖下ろしをさせた前で誓う起請文として七枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無き事を示そうとした。 吉田神道の吉田兼治に逆心無き事を示す起請文を作成し秀吉らに示した。  誓紙提出については「家中日記」にも記されており、史実性は高いと考えは高い思われている。  秀次は七月三日に、朝廷に白銀三千枚、第一皇子に五百枚、准三宮に五百枚、八条宮智仁親王に参百枚・聖護院道澄に五百枚を献納している。  そのため何らかの多数工作を行たか、また、偶然の一致が疑いを招き、粛清の口述を与えた。  七月五日、前年の春に秀次が家臣・白江成定を毛利輝元にもとに派遣し、独自に誓紙提出を交わして連判状をしたためている。 石田三成は秀吉に報告した。このことから、秀吉は 「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきにより」 この報告の内容は事実無根であり、秀次はすぐに応じなかった。  他の記述では、五日未明、当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質にしょうとしたので大久保忠隣と土井利勝が相談して秀忠を伏見に脱出させたと言う。  真偽のほどは定かではないが、三日間どの様なやりとりや出来事があったか明
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加