秀次切腹

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ならば、木食、この高野山が消えてしまってよいのか。 しかし秀吉に逆らえば高野山の寺院そのものが失われるという恫喝をしたが、秀次も切腹を受け入れたので対決は回避された。 切腹を迫る、秀吉の使いの者達。  秀次は名刀を多数所持していたが、山本主殿助、山田三十朗、不破万作の小姓衆は名だたる刀匠の脇差を賜ると、次々に原を斬り、この三名の殉死者は秀次が自ら介錯した。  虎岩玄隆は太刀自ら腹を切って果てた。五番目についに秀次の番となり、雀部重政の介錯により切腹して果てた。 「余は無念じゃ」 秀次の目から涙が溢れ流れた。 「殿参りますぞ」 介錯する者も涙と嗚咽が響き渡った。 享年二八歳であった。  法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士とし、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高岸道意とされている。 辞世は 「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」 雀部重政もすぐに自害して後を追ったが、秀次の介錯に用いた彼の刀、南都任金房兵衛尉政次は、兄の雀部六差左衛門の子孫に受け継がれていった。 「さらばじゃ」 秀次は腹を切った。 「えい」 と介錯の者の気合が入った。  秀次及び同日切腹した関係者の遺体は、高野山奥の院
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