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の千手院谷、光台院の裏山に葬られた。
福島正則は首だけは検分の為に伏見に持ち帰った。
「太閤殿下もここまでしなくてもよいものを。」
家臣らの秀吉の非情さに口々独り言う者少なからず。
七月一六日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。そかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶を図った。
秀吉の首実験で
「ばかなやつだ」
黙って、冷酷に無表情に奥の部屋に戻っていった。
七月三一日、秀次の妻妾公達が亀山城より徳永邸に戻され、八月一日、翌日に処刑されると通達された。
女性たちは辞世の句を認めたり、身支度等をした。八月二日、早朝、三条河原に四〇メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに三メートル程の塚築いて秀次の首が西向きに据えられた。
最も寵愛を受けたいた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願をしたが叶わず、真っ先に処刑された。
「せめて、女、子供赦免を」
秀吉は応じなかった。
結局、幼い若君四名と姫君、側室・侍女・乳母ら三九人の全員が斬首された。
「むごたらしき事よ」
子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からあまりにも酷いと奉行に対して馬事雑言を発せられ、見物に来たことを後悔するものがいたと言う。
「太閤も狂気の沙汰ではない。自分もきっとそんな風になる。」
観衆も怒号も聞こえるくらい怒り心頭に来ていた。
「京都の民衆は、恐ろしき事よ」
数時間かけて行われたた秀次の遺族の処刑が済むと、大量の遺体をまとめて一つの穴に投じられた。
この穴を埋め立てた塚の上で秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。黍塚の石塔の碑文「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような
殺生を関白の悪評があって、
「そこまでするなんて、神仏が許さない」
人々はこれを「畜生塚」や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流失した跡はしばらく放置されていた。
慶長一六年(1611)河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉陵以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字は削られて供養塔として再建された。
同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている。大名預かりになっている家老七名は全員死を賜り切腹した。
「お願い申す」
介錯を頼み、武士らしく、腹を切って果てた。
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