ずっと、ずっと甘い口唇。

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「佐古さんも立石さんも笑っていないで止めてくださいよ」  生理的な涙で曇る視界の先で半泣きの中村の瞳が漆のように黒く濡れているように煌めく。  暖かくて、とても優しい色だった。  ふいに、頬の痛みも周りの喧騒も止まったような気がした。 「・・・仕方ねえなあ。春ちゃんに免じてこの位にしてやるか」  ぺいっ、と岡本は飽きた玩具を放り出すかのように片桐を解放する。  この中村春彦は片桐と同じ部署に所属しているのだが、彼らの仕事場内に中村姓が五、六人程度おり、それぞれの区別をつけるために自然と通称を使うことが多く、その優しげな顔立ちと二十二才という若さからたいていの人から「ちゃん」付けで呼ばれていた。 「いい子だなあ、春ちゃんは」  佐古がそう言うなりいきなり背後から中村をぎゅっと抱きしめて頬擦りをしたため、驚いた中村は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。 「あの目は反則だぜ・・・」  憮然とした表情で岡本は腰を下ろし、立石は口に拳を当ててくっくっくっと喉の奥で笑う。 「だいたい、岡本は新婚だから何があっても笑いが止まらないんだろう。自分が幸せだと他人の不幸なんかちっぽけなもんだよな」 「ああ、そうさ、幸せさ。幸せすぎて、生きてるのが怖いくらいさ!」  胸を張って惚気る幹事に一同はやれやれとため息をつく。  不幸のどん底の片桐とは対極に、岡本は才色兼備で社内どころか社外にも名の知れた同僚を想い続け、昨年めでたく結婚にこぎつけたばかりだ。  箸が転がっても笑いが止まらないお年頃らしい。 「そういえば、有希子が言っていたぞ、『失恋には男薬、女薬』ってな」  『有希子だとーっ!自慢たらしく呼び捨てにするんじゃねえ!』と、背後から罵声が飛ぶ。男なら誰もが見惚れる高嶺の花をまんまと手に入れた岡本への恨みは未だ燻り続けているらしく、一次会が終わったあとの彼は無事に家に帰されることはないだろうと、立石たちは心の中で手を合わせた。 「男薬、女薬?なんだそりゃ?」  岡本の妻をカサブランカのような圧倒的な豪奢な香りと優美な姿の花に例えるならば、美咲はガーベラやチューリップといった可憐な雰囲気の持ち主で、どこか庇護欲をそそる女だった。そこが何よりも魅力だったと言ってよい。
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