第七幕 僕は喜んで命を捧げよう

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 地上、舎房一号棟。左端に位置するそこへやって来たのは、室生と堀である。  見渡す限り奥の方まで延々続く通路の両側に、取り付けられた幾つもの扉。覗き窓を開け、中に小林が囚われていないか、ひとつひとつ確認する作業は何とも地味で単調で、堀がまたぶーすか文句を垂れている。 「居なぁい、ここにも居なぁい。本当に多喜司さんはこんなとこに囚われているんでしょーか、斎星先生」 「黙ってやれんのか、君は」 「どぁってえ」  かしかしかしと蓋をスライドさせ、室生は手際よく部屋を見て回る。対面を担当する堀とは、いつの間にやら五つ程の差がついていた。しかし、堀はいっこうに急く様子がない。それどころか、ぺらぺらとよく口の回ること甚だしい。 「ここ誰も居ないじゃないですか。さっきから見る部屋見る部屋空ですもん」  確かにその言葉通り、独房には一人として囚人の姿が見られなかった。さっさと確認を終えて、通路の端で堀の到着を待つ室生が顎に手を置く。 「ここは永鶴神社の件の時に増設された施設で、元々舎房は一棟しかなかったそうだから、別の棟に集めて管理しているんだろ。良いことじゃないか、牢屋が空いてるって事は、それだけ捕まっている人数も少ないって事なんだから」  とはいえ、何処に小林が収監されているか知れない以上、人が居ないからといって作業をおざなりにするわけにもいくまい、と室生は堀を諭した。 「それはそうなんですけど」  堀はぶつくさ言いながらも、片側二十部屋の捜索を最後まで完了させた。  一号棟に小林の姿は見られなかった。 「次行くぞ」  堀が角部屋の覗き窓の蓋を閉めると同時、室生は元来た通路を引き返す。ここから中央の見張り所まで戻って、二号棟へと入る。  堀は「待ぁってくださいよ~」と先行く室生の背をだらだら追いかけた。一歩後ろを付いて歩き、後頭部で腕を組み、じっと小柄な背を見つめる。 「そういえば、訊いたことなかったんですけど」  唐突に堀が言った。 「何だよ」 「俺、倶楽部に入ったばかりの頃、先生に指導担当を頼んでいたじゃないですか。どうして受けてくれなかったんですか?ずっと気になってたんですよね」 「竜之介紹介してやっただろ」 「そういう事じゃなくて」  室生はやわりと話をはぐらかそうとしている。ここから芥川の話に持って行って、なんやかんや有耶無耶にしようという気配がありありと察せられた。しかし、そうはさせまいと軌道の修正を試みる堀に、室生は「別に」と曖昧な返事をした。 「ただそういうの向いてないってだけだよ」 「絶対嘘。斎星先生が向いてなかったら他の誰が向いてるってんですか」  他への世話焼きに関して言えば、室生の右に出る者は居ないと堀は常々思い知っている。誰かが服を脱ぎっぱなしにすれば洗濯してやり、体調を崩せば傍に付いて看病してやり。そもそも、あの人見知りの萩原やら癖の強い芥川やらと濃い友人関係を継続している時点で、相当の包容力である。しかし、室生は否と首を振る。 「買い被りすぎ」 「俺には話せない事なんですか?」 「そんなんじゃないって」 「斎星先生」  食い下がる堀に、室生は嘆息した。 「しつこいぞ、たっちゃんこ――」  そこで、室生はぶつりと言葉を切った。「待て」と言って、後方の堀を制す。  第一舎房の終わり、見張り所との境に、人影があった。芥川や谷崎ではない。軍服を纏い、ひとつに編んだ白鼠の長髪を垂らした女。 「女形の兵士……」  堀が呆然と零した。 「こんばんわ」  女が言った。 「こんな夜更けにいけないよ。子供は寝る時間だ」 「零式」  室生が唸る。  女は首を傾ける。 「その呼称はあまり好かない。出来れば桜と呼んでもらいたいが。けれど、そうだな……君には白柊の名の方が、馴染みがあっていいかな」  静かに息を呑む音が、堀にははっきりと聞こえた。 「はくしゅう?何の事ですか、先生」  堀が室生に問いかける。しかし、室生は相手をじっと凝視したまま何も答えない。 「先生?」  不審げに、堀が眉を顰める。 「おや」と女が言った。 「君は教え子を持ったのだね。そうか、見目はあまり変わっていないが、やはり大人になった。そういえば、咲太郎は元気かい?」  落雷のような轟音がして、第四舎房へ入っていた芥川と谷崎が見張り所まで引き上げてきた。 「何事よ」  崩落して土埃を上げる監視室。谷崎が驚愕に目を見張る。  瓦礫の中から飛び出し、華麗な宙返りで地面へ降り立ったのは、黒軍服。それに向かって、室生が抜刀している。鋭く繰り出される幾重もの斬撃を、兵士は難なくいなし、隙を拾っては反撃に転じる。しかし、室生も刀身を使い、上手く攻撃を受け流しては再び相手に刃を降り翳す。  拮抗する実力に、芥川が目を細める。 「あれは、零式か?」 「斎星先生!!」  堀の絶叫が響いた。第一舎房の入口に立ち、懸命に呼びかけている。しかし、室生に反応はない。  芥川と谷崎は堀の傍へ駆け寄った。 「たっちゃんこ」  気付いた堀が、今にも雫の溢れ出しそうな瞳で、芥川に縋りつく。 「竜先生!」 「何があった」 「零式が現れて、それで斎星先生が突然斬りかかって、呼びかけても全然返事してくれなくて、俺、どうしたら」 「落ち着け」 「あの兵士、桜って名乗ってて、でもその後に君にはハクシュウの方が馴染みがあるかなって言ってて、そうしたら斎星先生が」  気の動転した堀の支離滅裂な説明に、芥川が怪訝に眉を寄せる。 「はくしゅう……北原白柊か……?」 「竜ちゃん」  谷崎からの指名に、芥川が向く。  室生の動向を観察していた谷崎は、厳しい表情を湛えている。 「駄目よ、あれ、完全にトんでるわ。早く止めないと壊れるわよ」 「壊れるって……」  堀が不安げに瞳を揺らし、谷崎を見詰める。  芥川は堀の肩から手を離した。腰に回ったホルダーに取り付けられた小振りのポーチから、針の付いたプラスチックのケースを取り出す。 「何ですか、それ」  疑惑の眼差しに、芥川が返答する。 「活性抑制剤だ。一時的にA因子の働きを鈍らせる効果がある。あいつは相性が良いばかりに、能力は破格だが、感情が昂ると抑えがきかなくなる」  これまでにも数度、こうした事があった。大切な者が傷付けられた時、冒涜された時、爆発し、制御しきれなくなった感情にA因子が感応し、理性を奪う。  室生は他の倶楽部員と比べ、特段因子との適合率が高い。少なからず現れる拒絶反応――所謂後遺症を患っていなかった。しかし、それ故に、魂への干渉も極めて多大なものとなる。 「活性化したA因子は勝手に枷を外すんだ。どうなるかは、言わなくともわかるだろう」  堀は愕然とした。室生とは、倶楽部に入る以前からの付き合いである。年数に見合うだけの絆もあれば、それなりの人となりも把握している。世話焼きで、自然と動物を愛し、若い容姿をしながら、書くものには独特の艶がある。多くは大人で、稀に子供で、優しく情の深い暖かな人。しかし、そのような複雑怪奇な事情を抱えているなど、露程も感知できなかったのだ。契りを交わしてこそいないが、師の一人として敬愛していたのにもかかわらず。  思えば、目にしていたのは表層のみであり、彼の裏側を何も知らない。堀は気付く。この事情の事といい、はくしゅうという人物の事といい、何も。  芥川は針の周囲に覆い被さっている蓋を、指で弾いて取り去りながら言った。 「数があるわけでもなければ、副作用も生じる。なるべくなら使いたくはないが」 「キレたあいつの責任よ。気に病むことなんてないわ。ほっとけば死ぬんだから――って、たっちゃん!?」  気付かぬ内に、ふらふらと堀が歩き出している。谷崎は慌てて、腕を引いた。 「何処行くのよ、危ないから離れてなさい!」 「放してください。斎星先生を止めなきゃ」 「それはあたし達がやるから、あんたは――」 「俺は!」  堀が吠える。 「いっつも甘えてばっかりで、助けて貰ってばっかりで、沢山愛してもらって、なのに先生の苦しい事、何も知らなかった。二人は、こうなるかも知れないってわかっていたんですよね。何で教えてくれなかったんですか。俺がガキだからですか。除け者にしないでください。弱いけど、俺にだってあの人の痛いものを少し抱える事くらい出来ます!」  ぼろぼろと地面へ零れ落ちる雫に、谷崎は閉口して腕の拘束を解いた。 「竜雄」  芥川が歩み出る。 「黙っていた事は謝罪しよう。斎星からお前には言わないようにと、念を押されていた。心労を掛けまいとしたんだろう。決してお前を見くびっていたわけじゃあない。許してやってくれ」  堀は鼻をすすり、目元を拭って小さな声音で「はい」と言った。  谷崎が大仰に溜め息をつく。 「まったく、健気にも程があるわよ。羨ましいったらないわね」 「純」  芥川が呼ぶ。  谷崎は意図を酌んで肩を竦める。 「いいわよ。あたしが零式止めるから、あんたたちで斎星どうにかなさい」  言いながら、谷崎は柄を握り、抜刀する。薄く桜色がかった刀身が薄闇に閃いた。 「行くわよ」  谷崎が颯爽と駆ける。  芥川と堀が続いて抜刀し、その背を追従する。  激しく打ち合う零式と室生。谷崎はその剣先が距離を取る一瞬を見極め、間に割って入ると、振り下ろされる零式の一撃を弾いた。  同時に堀も、室生の一太刀を受け止める。 「――ッ!」  重い一打に骨が軋む。堀は歯を食いしばった。 「竜先生!」  背後を取った芥川が、室生の頸部を狙い、すかさず抑制剤を打ち込む。針は首筋の皮膚を貫通し、滞留していた液体が体内へ流れ込む。  室生が堀の刀を跳ね上げ、無防備と化した脇腹を蹴り飛ばした。  受け身を取る間もなく吹っ飛んだ堀は、背から壁に激突し、地面に崩れる。 「たっちゃんこ!」  芥川が叫ぶが、気を反らした瞬時の隙に、顔面を狙った回し蹴りが側頭部へ飛んでくる。  芥川は辛うじて腕で頭部を庇う。しかし、それでも前腕骨に響く強烈な打撃に数歩後退り、膝を折った。じんと疼く鈍い痛みに、冷や汗を浮かべる。 「この、馬鹿力が……!」  芥川は腕を押さえながら、室生を睨める。刀を揺らし、蘇った死人の如くぬらりぬらりと歩を進めるその姿には、かつての温厚な面影などは微塵と感ぜられない。灰色の瞳は、怨恨に染まった幻影を映し、全てが悪と成り、現実との見境が無くなっている。彼の意識は完全にA因子に乗っ取られてしまっている。  この姿を見る度に、芥川は己の体内を流動する異物が如何におぞましく、惨たらしいものであるかを実感した。信念を守るために必要な力ではある。しかし、いつか自身も、この力の狂気に飲み込まれてしまわぬだろうかと。  室生が頚部に突き刺さった針を引き抜き、既に空となっている入れ物を地面へ投げつけた。そうしてそれを靴底でぐしゃりと踏み潰す。  芥川は刀の刃先を向けて威嚇した。  室生を傷つけたくはない。しかし、この局面で手抜きをして己の命を守り切れる程の力量もない。 「斎星……」  柄を握り締める指先に力が籠る。刀身がぶれる。  このまま戦わねばならぬのかと、精神が揺らいだ。  その時、がしゃりと、室生の手から刀が滑り落ちた。次いでがくりと膝が地面に落ち、肢体がそのまま流れるように倒れ伏した。 どうやら、薬が漸くその効力を発揮したらしい。  芥川は、押し寄せる安堵に息を吐き、刀を下ろした。 「まったく、何処が即効性だ……」  すぐに効き目が現れるから使いどころには気を付けるようにネ、という森の言葉を脳内で反復させながら、芥川はぼやく。納刀し、膝を立ててよろよろと室生へ寄る。瞼の閉ざされた青白い顔を覗き込んで、その頬を抓った。 「毎度面倒をかけやがって、こいつ……」  キン、と一際高音が場に響き渡る。  芥川は、はっと前方を向き直った。戦闘は未だ継続されている。谷崎と女形の攻防。両者は互いに間合いを取り合う。 「純、平気か」  肩で息をする谷崎へそう声を送れば、「見りゃわかるでしょ、ギリギリよ!」とのエネルギッシュな返答が返った。未だ僅かな余裕の見て取れる様子に、芥川は違和感を覚える。暴走状態の室生と対等に打ち合っていた相手に、谷崎がこうもあっさりとした具合であるのはどのような次第かと。  ふと、兵士が芥川の方へ視線を向けた。否、正確には室生を見たと思われる。 「余所見とは舐められたもんね」  谷崎が啖呵を切る。  零式がそれを一瞥し――どういうわけか、軍刀を鞘へ納めた。  不審な行動に、谷崎が「何の真似よ」と肩を怒らせる。 「止めにしよう。元々ここへは戦いに来たわけじゃない」  零式の淡々とした言い草に、谷崎は眉を吊り上げた。 「だったら、何しに来たってのかしら」 「挨拶だ」 「挨拶ぅ?」  素っ頓狂な声を上げる谷崎の後を、すかさず芥川が引き継ぐ。 「貴様、北原白柊と名乗ったそうだな。一体何者だ」 「何者……私の素性を問うているのか?それならば見た通り、私は特務公安軍零式監察兵、名を桜。君達、文豪倶楽部の敵であるが……北原白柊というのは、私の以前の名だ」 「以前?」 「何だ、君達は意外と何も知らないんだな。もう少しこちらの情報を掴んでいるものかと思ったが、そうか……所詮はただのモルモットというわけか」  くすりと、ひとを小馬鹿にしたような笑みに、谷崎が「何なのよ、この腹立つ女」と突っかかる。 「どういう意味だ」  芥川が追及した。 「それを問うて、私が素直に話すとでも?」  的を射た発言。しかし、眼前の人形には、他とは異なる何か、明確な意志を感じた。暗然たる穴の底に、僅かに湧き上がる澄んだ泉の如く、無垢な何か。ひとに近しい何か。芥川は、それを凝視した。  谷崎は、依然零式に切っ先を向けたまま、臨戦態勢を取っている。  じりじりとした沈黙が身を焦がす。 「はあ」  暫くしてそうぽつりと息をついたのは、零式であった。肩を落とし、観念といった顔つきでいる。 「そちらへ行ってもいいかな」  零式が芥川へ向かって言った。 「はあ?」  声を上げたのは谷崎だ。じろりと鋭い視線で零式を睨め、「何ぬかしてんのよ、アンタ」と恐嚇する。 「純」  芥川が戒める。それからこれ以上の邪魔立て無用と用向きを言い付けた。 「たっちゃんこを拾ってくれ」  谷崎は文句を言いたげに一度口を開けたが、すぐに言葉を飲み込んで、渋々と嘆息しながら壁際で伸びている堀の元へ向かった。  それを了承とばかり、零式がゆっくりと芥川の傍へ歩み寄る。そうして傍らまで来ると、膝を折ってじっと室生の顔を見詰めた。 「触れても良いかい」 「……ああ」  芥川の承諾を得ると、零式は手を伸ばし、黒いレースの手袋越しに、室生の頬を撫ぜた。 「そう、彼はいつもこの頬っぺたが可愛らしくてね。まるで幼子のようで」  兵士がついと目を細める。その面持ちには慈愛と柔らかな追憶が滲んでいる。到底作り物とは思えぬ複雑な仕草を、芥川は黙って静観した。 「私は北原白柊の魂魄を内蔵して造られている。だから彼女の過去の情報を記録として持ってはいる。ただ、それを自分の記憶として認識しているかと言えば、否だ。彼を懐かしいと思いはすれど、それが私自身の感情であるという実感はない」  零式が淡々と語る。 「魂魄……?」  芥川が眉唾とおうむ返す。  零式は辟易と言った。 「何だい、それすら知らないのかい」 「悪かったな無知で」 「別にいいけどね。私達監察兵は人の魂を使って造られているのさ」  零式はどういうわけか、兵士の成り立ちを芥川へ語って聞かせた。  捕らえた囚人から抜き取った血液を情報として機体に入れ込み、そこへA因子を投与すると魂魄が構成される。A因子との相性が良い場合はより人に近く――つまり、ナンバリングの若い機体と成り、また魂の情報が濃密であればある程、個体強度が増す。そう、正に―― 「後遺症と魂魄刀……」  芥川がぽつりと呟いた。倶楽部でいうところのそれと通じている。 「この子の魂を使えば、良い兵士が作れるだろうね」  その一言に、芥川が鋭利な眼差しを向けた。  零式は微笑を浮かべる。 「冗談だよ。そう睨まないでくれ」 「……何故俺に話した。何を考えているんだ、貴様は」 「別に知られたところでどうという話でもないだろう、この程度」  そのように語る零式からは、瞭然とした余裕が見て取れる。製造法を理解したところで如何様にもなるまいという軽視。 「君達に勝機などはなから存在しないのだからね」 「言ってろ」  芥川は相手にならんと吐き捨てた。  兵士は「ふ」と鼻で笑って、その場に立ち上った。腰に手を置き、壁際でうだうだとしている谷崎らの方を見やる。 「さて、無駄話はこの辺りにしておこう」 「何だ、やる気になったのか」 「今日は挨拶に来ただけだと先に言ったはずだ。君達のお友達は地下に居るんだろう。そろそろ良い頃合いだと思うが」 「頃合い?何の話だ」 「私は耳が良くてね。そら」  零式が顎をしゃくった。  芥川がそちらに視線を送る。  監視室の瓦礫の傍に、ぽかりと四角形の穴が開いている。その内から、にょきりと二つの頭部が現れ出た。一目でそれとわかる白黒斑、そして薄汚れた白髪。 「由季夫、多喜司!」  芥川が咄嗟に呼号した。  はっと少年が振り返る。汗と鮮血と悲痛に塗れ、つい数十分前に別れた彼とは別物の姿が、芥川を向いた。
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