第一幕 自由への反逆

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 賑わう大通りを外れ、ひとたび路地裏へと入ると、そこは本当に同じ街かという程に人気が無い。スナックやバー、駄菓子屋、怪しげな薬品店、様々な店が軒を連ねる。中には何を扱っているのか謎に包まれた店さえもある。足を運ぶ物好きといえば、酒場の常連か、素性不明の風変わりな連中ばかり。  その一角に古書店があった。小ぢんまりとした店内には本棚目一杯に所狭しと書物が並び、収まりきらなかった分が椅子やカウンター脇に無造作に積まれている。  カウンターの中には、洋装の老人。椅子に座って、紺表紙の本に視線を落としている。  店内にはもう一人、涼やかな顔立ちの青年――志賀直也が、猫の描かれたエプロンを身につけ、本棚に向かってはたきを掛けていた。  ぱたりと本を閉じる音を聞きつけると、志賀は手を止め、棚の角からひょこりと顔を出した。 「読み終わった?」 「ええ」  老人は眼鏡を外し、ベストの胸ポケットへそれを収納する。  志賀はぴょんぴょんと軽い足取りで老人の傍へ寄り、カウンターの上に手と尻を置いた。 「んで、どうだった?」 「彼もなかなか腕を上げました」 「へえ」 「君の指導の賜物ですかね」 「やっぱそうかなあ」 「冗談ですよ。彼のセンスが良いのです」 「……俺はじっちゃんのそういうとこ良くないと思うね」  華やいでいた面を瞬時に強ばらせ、志賀が不服を述べる。しかし、老人はすました顔をして、席を立った。 「これはこのまま預からせて貰います、と彼に伝えておいてくださいね」 「俺の話は無視なの?」 「ああ、それともう何冊か仕入れたいとの旨も。お願いしますよ、志賀君」 「はいはい、わかりましたよ」  本を手に持ち、老人は壁に仕切られた奥の部屋へと引っ込む。 「ところでさあ」  志賀が微かに声を大きくして問いかけた。 「俺の本の売れ行きはどう?」 「ぼちぼちですよ」 「ぼちぼちって何よ」 「四十冊くらい売れましたかね」 「たった四十冊ぅ?はあ~、世も末だねまったく」 「何を言っているんですか。このご時世で君の本が売れるわけがないでしょうに」 「そうは言ってもさあ、四十冊ってのはちと少ないんじゃないの?竜はこないだの新作初日で百売れたっつってたよ。じっちゃんの宣伝が足りないんじゃない?」 「馬鹿おっしゃい。特公に捕まれと言うんですか」 「冗談デスヨ」  志賀はぴょいとカウンターから尻を離して、唇をとんがらせながら店内をふらふらし始めた。  志賀の本というのは、公には宣伝不可能の作品、つまり禁止図書である。彼は過去にいくつもの作品を発表し、その界隈では割と名の知れた作家だ。ただ近頃は新進気鋭の後続達が次々と世に出始め、また志賀自身教え子の育成に力を入れている為、作品の制作になかなか身が入らなくなってしまっているのが実情である。それ故、読者の間では、近頃の志賀の作品にはパンチが無い、などと囁かれているらしい。  老人が店の奥から数冊の本を持って戻って来る。カウンターの真後ろにある本棚に幾つかを並べ、残った物を店頭へ出す。 「志賀君、さぼっていないでお掃除してください」  志賀は入り口の真ん前に座り込んで、蟻をつついている。 「で、どんな奴が買ってったの?」 「気になるんですか?」 「そりゃあ気になるよ。俺的には可愛い女学生とかがいいけどな~」 「そうですか、では残念ですが期待には応えられそうにありません」 「全員男かあ」 「いつもと同じ、君のファンの方々ですよ」 「そっか~。まあそれはそれで有難い話なんですけどね」  蟻を一匹人差し指に乗せ、じっと観察する。そうして、蟻の体は三等分なんだナア、といった意味のないような事を考えている志賀の背後で、老人は好き勝手に話を続けている。 「ああ、そう言えば、格安でお貸ししただけですが、一人学生さんがね、君の本を持っていきましたよ」 「へえ、学生」  視界に入った革靴の主を、志賀は見上げて言った。 「こんな感じの?」 「あの……」  制服を着た少年が、古書店の前で立ち止まり、困った顔をしている。無論、その原因は入り口を塞いで彼の動線の邪魔をしている志賀である。 「おや、いらっしゃい」  老人が少年の姿を見つけて、声をかけた。  その様子を見て、志賀は膝を伸ばし、脇に退ける。 「あら、お客さんだったのね。こりゃ失敬」  少年は来慣れた様子で、カウンターへと引き返す老人の後を追い、鞄の中から取り出した本を机の上に置いた。煉瓦色の表紙には“自由への反逆”と題が刻まれている。  志賀はほう、と目を細めた。 「どうでしたか?」  老人が少年に問う。 「とても勉強になりました」 「そうですか、それは何よりです。今日は丁度、新作が入っているんですよ。良ければ借りていきますか?」 「本当ですか、是非」 「はいはい、ちょっと待っていてくださいね。今奥から持ってきますから」  老人は瞳を輝かせる少年ににこりと笑いかけて、店の奥へと引っ込んだ。  少年はカウンターの手前に置いてある椅子に座り、手近な本を物色している。純文学に歴史物、推理小説、中には絵本も。小さな書店ながら、扱っているジャンルは多岐にわたる。しかしそのどれもに、少年は心惹かれなかった。彼の興味は例によって、この店の奥に隠されている代物であるからだ。 「君、一高の生徒さんだよね?」  手持無沙汰をしている少年に、今の今まで遠巻きで様子を窺っていた志賀が、ふらりと猫のように近寄った。 「そう、です」  少年がおずおずと答える。警戒していると見える。しかし、志賀はそれをわかっていて敢えて問いかけている。 「珍しいね、こんな古本屋に君みたいな学生がさ。本好きなの?」 「まあ……」 「へえ、俺も好きなんだ。同じだな」 「そうなんですか」  少年は冷めた相槌を打つ。  志賀は苦笑した。 「そんなにつんつんしなさんなって。それじゃあ君、あからさまに自分から反政府名乗ってるようなもんだぜ?」  ぴくりと肩を揺らし、少年の顔色が明らかに変化した。警戒の中に混じる、不審と恐れ。 「あなた、何ですか?新しい従業員ですか?」  少年の鋭い眼差しに、志賀は肩を竦める。 「いいや。俺はただの手伝い。ここの店主には色々と世話になっててね、その礼も兼ねてたまに。ほら、あの人ももう歳だから」 「誰が歳ですか。私はまだまだ働けます。それと、そう意地の悪い絡み方をするものではありませんよ」  老人が腕に数冊の本を積み上げて帰還する。  志賀は「相変わらず地獄耳だな」と悪態をついて、そそくさとその場を退散、掃除へと戻った。 「すみませんね。気を悪くしましたか」 老人の気遣いに、少年は小さく首を振った。 「いえ」 「悪い人ではないのですが、少し捻くれているんです。大目に見てやってください」 「はあ」  少年がちらりと志賀の方に視線をやると、口を3にして笛を吹きながら、本棚の埃をはたきで落としている。悪人ではないが捻くれ者、その表現は何とも正しいように思えた。 「前回いらっしゃった時に置いていた内のいくつかは他の店に回してしまったので、今日あるのはこれだけですが」  そう言って、老人がカウンターに広げたのは六冊。右から森翁外、谷崎純一郎、泉鏡歌、三好立治、萩原咲太郎、小林多喜司と筆者名が並んでいる。どれも一線級で活躍する革新主義の作家達だ。 「それでこちらが例の新作です」  端にある紺色の本を指して、老人は言った。 「ちなみに俺のおススメもこれ」  少年の背後からにゅっと手が伸びてきて、その新作の本を拾い上げた。  老人が咳払いをする。 「まあまあ」  何か言いたげな老人を制し、志賀はその本を少年に渡した。 「……小林多喜司、好きなんですか?」 「好き、とは少し違うけど、才能がある奴だとは思う。読んだ事あるか?」 「はい。他の方と比べて反保守志向がより強く内容に表れていて、過激と言えば過激ですけど、僕は好きです。とても純粋な作家だと思います。そういえば、どことなく文体が志賀直也に似ていますよね」 「へえ……いい考察力だ。相当に色んな本を読み込んでるんだな」 「唯一の趣味なので」 「その歳で読書が趣味!爺さんかよ」  ケラケラと笑う志賀に、少年は不服げに眉を寄せた。 「何か可笑しいですか」 「いやいや、失敬。君変わっているな、ただの学生じゃないと見た。名前はなんていうんだ?」  その問いに、少年は逡巡した。悪人でないとはいえ、このような素性の知れない男に名を明かしても良いものかと。しかし、同時にどうしようもなく感激してしまっていた。平凡を取り得にしてきた少年に、目の前の男は「普通じゃない」と言ったのだ。禁止図書という危険に手を出してまで求めてやまなかった言葉を、この男が言ったのだ。  それだけで、少年は世界に認められたような心地になった。そして何か、今この瞬間、特別なものが手を伸ばしてきているような気がして、彼はそれを掴まずにはいられなかった。 「平岡君武です」 「君武君か、宜しくな。俺は――」 「失礼する」  志賀の発言を遮って、低く重たい声が店内に響いた。  老人と志賀と、そして君武は、一斉に其方を振り向く。  開け放たれた戸の向こうに立っていたのは、三人の黒軍服――特公兵士であった。  その内の一人が言う。 「こちらで不審な書物を扱っているとの情報があった。少々中を――」  ――一瞬の出来事であった。  激しい衝突音が耳を裂いた。  何事かとその場の一同が音の方を向けば、今の今まで店内で雑談に興じていた筈の志賀が、その手に握る鈍く光る刀で兵士の頸部を突き刺し、壁に磔にしていた。  衝突音は、兵士の体躯が壁に激突する音であったようだ。既にその体からはだらりと力が抜け落ちている。  余りに瞬く間の出来事に思考停止していた二人目の兵士が、何が起きたのか漸く理解したところで腰の軍刀に手を伸ばすが、それを抜ききる前に心臓に銃弾を撃ち込まれ、絶命した。 「まったく、人が折角いい出会いに恵まれてる時に、無粋にも程があるでしょうよお前ら。空気読みなさいよね」 「貴様、志賀直也」 「志賀、直也……?まさか……」  君武は、余りの驚愕に言葉を失った。  兵士は確かにそう口にした。  それは君武がつい先刻までこの古書店から借り受けていた“自由への反逆”、その本の表紙に記されていた名である。君武が憧れてやまない革新主義の作家。  数秒の内に展開した出来事に頭がついて行かない。  老人と手伝いの青年と、三人で話をしていた所に特公の兵士が現れ、次の瞬間には眼前から青年が消えていた。そして衝突音。次いで銃声。終いにはこれだ。  老人の咄嗟の機転で腕を引かれ、カウンターの裏に身を潜めている現状。外の様子を伺おうと少しだけ頭を出せば、直後に再び発砲音が響いて、君武は耳を塞いだ。しかし、目はしかと見開いている。  兵士が銃の引き金を引く。  頭部を的確に狙い銃口から押し出された弾を、志賀は僅かに重心をずらし躱す。そのまま前傾を取り、瞬時に距離を詰める。  兵士は銃を構えながら後退しようと動くが、志賀が一手早い。低い姿勢から、兵士の脛を横一線に薙ぎ、体勢を崩したところで、躊躇なく両腕を断ち切る。 「うぐッ……!」  苦悶の声と表情を浮かべる兵士を凝視すれど、顔色一つ変えず、志賀はその首に向けた刃を大きく振り抜いた。  君武は咄嗟に目を反らす。バラバラになった肢体が、ごとごとと地面へ落下する音だけが耳に届いた。  ここまでものの数十秒である。  志賀はちっと舌を打って、顔に飛んだ返り血をシャツの袖口で拭った。 「ガラクタめ」  残骸に向かってそう吐き捨てるように言う。 「じっちゃん、この店はもう駄目だ、破棄するしかないな」  店内へ戻り、身に付けていたエプロンを外しながら、志賀は老人へ向かって言った。  抜き身の刀身を拾った鞘へ納めると、刀は空気に溶けるようにして消え去ってしまう。  決着がついた頃合いから立ち上がって外の様子を眺めていた老人は、肩をすくめて困ったように笑んだ。 「そのようですね。今回は長続きすると思ったのですが、残念です」 「そんなこと言って、どうせもう次の見当はついてんだろ?」 「お察しの通りですよ。準備が整ったら、本部の方にお知らせします」 「了解」 「では、私は一足先に。お二人も長居は無用ですよ」  そう言って、老人はカウンターの下に置いてあったジャケットと鞄を持ち出し、さっさと店を後にしてしまう。  特公に嗅ぎつけられてしまっては、最早営業は叶わない。老人が幾度となく経験してきた事態だ。折角の店を手放さなければならないのは惜しい話だが、後ろ髪を引かれてばかりいてはやっていられない。潔く諦めるのがこの界隈での常套手段。  残された志賀は、手にした上着を羽織りながら、カウンターの中で蹲る君武に声をかけた。 「君、平気か?」 「首、飛びましたよね」  君武が微かに震える声で言う。 「とんだな」 「いくら相手が特公って言っても、あんな、何の躊躇もなく……」 「でもやんなきゃ捕まってたよ」 「そうですけど……」  君武は不満げに口を噤む。  志賀の言っている事は最もだ。ああしていなければ、ここに居た三人共が今頃特公に捕えられ、監獄へと連行されていた事だろう。理解しているからこそ、それ以上の言葉が続かないのだが、幼い頃から誰もが当たり前に教わるのは、人を殺してはなりませんという道徳。禁止図書に耽り、いくら反抗思想に傾倒したとはいえ、一般社会で生きてきた君武はどこまで行っても中途半端なのだ。  そうやってもだもだとしている様子に、志賀は溜め息をつく。 「まあ、君の言いたい事もわからなくはないけどね、とりあえず、このままここにいると違う部隊が応援に来ちゃうから、急いで離れた方がいい。君は辛うじて顔バレしてないだろうし、表通りに出たら別れよう」  君武は沈黙している。 「あ、もしかして腰抜けちゃった?手貸そうか?」  志賀が茶かすように言うと、君武は「大丈夫ですっ」とすぐさま立ち上がった。 「それはようございました」  志賀が薄く笑って、先行する。その後を付いて君武が店の外へ出る。生々しい戦闘の形跡に君武は顔を顰めて、その惨状を成る丈視界から外すように努めた。志賀が軽く左右の様子を窺って、いざ歩き出す。しかしその時、路地の入口から、五人の兵士が姿を現した。うち一人が声を上げる。 「居たぞ、目標だ!」 「おいおい、まじかよ。来んの早すぎんだろ」  付近を巡回していた別動隊であろうか、余りにも急な新手の登場、この展開は志賀も予想していなかったようだ。  君武は青ざめた。 「どうするんですか!?」 「逃げるが勝ち」 「ええ!?」  すたこらと兵士群とは逆の方向へ駆け出す志賀。君武もその背を追う。他に選択肢がない。  狭い路地を伝って表通りへ出ると、一気に喧噪が舞い戻ってくる。二人が特公に追われている事など露しらずの通行人達は、楽しげに笑い合い、日常を謳歌している。  当初の算段ではここで二手に分かれる目論見であった。付け狙われているのは志賀であるから、未だ顔の割れていない君武は何でもない振りをして雑踏に紛れ込む計画であった。しかし、表通りへ出てすぐに左手百メートル程先からまた別の兵士が三人、こちらへと接近してくるのが見えた。 「止まれ!」  路地の奥から声が響く。背後の追っ手も確実に迫っている。 「こっちだ」  志賀はやむなく未だ進路の塞がれていない右手へと走った。  通行人が、通りを疾走する二人に道を空けながらも、何事かと驚いたような顔を向けてくる。  君武の心臓は大きく鼓動した。全身がくまなく酸素を求めている為でもあるが、またそれとは違う――そう、これは、高揚。今、自分は、事件の中心に居る――!  大通りを暫く駆け、途中の横道に逸れた二人は、住宅街へと入る。途端に再び人の往来は無くなる。  比較的古い建物が密集するエリアのようで、自動車一台が通れるか否かというような狭く入り組んだ道を進む。そうして五分程したところで、志賀は漸く一軒の平屋の前で足を止めた。  表札がなければ、人の気配もない。  志賀は無遠慮に玄関まで赴き、がらりと戸を開ける。何故か鍵が掛かっていない。 「入って」 「え、でもここ人の家」 「空き家だから大丈夫」 「そう言う問題じゃ」 「早くしろ、死にたいのか」  君武は閉口して従った。  志賀も後に続くと、戸を閉めて、鍵を掛ける。そうして靴も脱がずに上って行ってしまうので、奇妙に思いながらも、君武はそれに倣って後を付いて行く。  外国では家中でも靴を脱がない文化が一般的であると何かの本で読んだ気がする。もしや、この男は外国生まれなのではなかろうかと君武は勝手な想像を膨らませた。  家の中はしんと静まり返っている。やはり住人はない様子で、家具の類も置かれていない。しかし、畳や床は綺麗に掃除がなされていて、目立った汚れは見当たらない。きちんと管理されている住まいのようだが、そうなると余計に鍵の件が気がかりである。  八畳程の部屋へと入ったところで、志賀は立ち止って、耳元に手を翳した。 「志賀です。特公に追跡されています、応援を寄越してもらえますか。……いえ、それが民間人を一人連れていて……。一高の学生です。……M13の空き家にいます。……はい、了解です」  君武には意味不明な独り言を終えると、志賀は壁にもたれて膝を折り、一つ息をついた。畳を叩いて、立ちぼうけの君武に隣に座るよう促す。  君武は一メートル程距離を取った所で腰を下ろした。 「地味に警戒されてんね、俺。割と人からは好かれるタイプなんだけどな」 「名前も知らない相手の事を信用出来ると思いますか」 「そらごもっともだ」  つんと跳ね返された返答に、志賀はうんうんと得心した。 「訊いてもいいよ」  何を指して、言っているのであろうか。  訊きたい事は山程ある。しかし、その全てにこの男がまともに答えるとは到底思えない。  志賀の表情はそのほとんどがどうにも容量を得ない。何を考えているのか、表情からは全く読み取れない。顔面を見つめてその真意を探ろうとするが、薄い笑みが膜を張るように中身を隠してしまっていて、掴み所が無い。  君武は諦めて視線を外し、暫し逡巡してから、取り敢えず第一の気がかりを口にしてみた。 「さっき兵士の人が貴方を“志賀直也”って呼んでましたけど、本物なんですか?」  語尾が微かに揺れた。それは淡い期待、そして同時に失望でもある。  “志賀直也”は君武にとって、最も強い憧憬の対象だ。彼の作品は無論全て読破している。そんなおよそ神にも等しい存在が今目の前に居るかもしれない、という期待。しかしだとすれば、余りにも思い描いていた印象と異なっている、という失望。君武の中の“志賀直也”は、こんな風に乗って漂うケセランパサランのような存在ではなく、もっとどっしりとした男気のある人物なのだ。  君武の問いに、志賀はにっこりと笑って答えた。 「ひ、み、つ~」 「はあ?」  君武は頬を引き攣らせた。初手からこれだ、許可を出したのはそっちだろうが、と文句が口から出かかる。  そんな君武の心情を知ってか知らずか、志賀は苦笑しつつ言った。 「そんな顔しなさんなって。言わずもがな、俺は反政府側の人間だぜ?そう易々と名前を口にするわけないだろ」 「人には名乗らせといて」 「普通は名乗らねえんだよ。それか偽名を使う」  君武は、はっとして志賀の方を向いた。  志賀は先程までとは打って変わって、厳しい表情を湛えている。 「君のそれ、本名だろ?」 「試したんですか?」 「まあな。知ってると思うけど、俺達には敵が多い。完全に此方側と割れている奴にしか情報は与えない。つまり君には全くと言っていい程自覚が足りていないって事だ。片足突っ込んでる癖して、思考は中途半端。禁止図書がお伽話とでも思ってるのか?」 「そんなこと思ってない……!」  即座に否定はするが、徐々にずきずきと胸の奥の方が痛んで、君武は制服の胸元を握り締める。 「でも心のどこかでは他人事だっただろ。だからそんな迂闊な真似が出来る」 「………」  腹が立つのは図星を突かれている為であろう。否定の言葉が浮かばない。指摘されれば、確かにそうかもしれないと思える。自分は平気だ、絶対にバレやしないと高を括っていた。そこには何の根拠も、確証もない。道端で特公に連行される人々を見て、可哀想に運が無いと気の毒に思っていた。考えれば、そこで既に自覚なんてものは無かったのである。心労に心を痛める幼馴染の方が、まだ事の重大さをよくわかっていた。  志賀の言葉が続く。 「君は此方側に興味があるようだが、正直俺は向いてないと思うぜ。深入りしたところで早々に捕まるのがオチだ。さっさと縁を切ったほうがいい。君はまだ若いんだ、命を無下にするな」 「そんな、そんなの……」  志賀の言い分が矢となって肺や心臓を貫き、上手く呼吸が出来ない。言葉が喉に詰まる。それでも何とか、君武は声を絞り出した。  言いたい事があった。 「そんなの、関係ありません。若くても、理不尽と戦っている人達は居ます。貴方だって僕の歳の頃にはもう作品を発表していたじゃないですか」  志賀は肯定も否定もせず、ただ黙って聞いている。 「確かに、貴方の言う通り、自覚が足りていなかったかもしれません。でも、僕はもう戻る事なんて出来ない。貴方が言ったんじゃないですか。僕は平凡を捨てたい。何か特別なものを持って生きていたいんだ」  何故こんなにも熱くなっているのだろうと、君武は思った。このように誰かに自分の思いの丈をぶつけるなど、生まれてこの方経験した覚えがなかった。  それ程までに、君武は必死であった。今この瞬間にも切れかかる糸を、決して手放すものかと。しかし、子の幸せを願う親が聞けば、涙を流すだろう。何とも独り善がりで無鉄砲。  志賀は肺一杯に吸い込んだ空気を、長い溜め息にして吐き出した。 「いいじゃないか平凡。平凡でいる事が一番の幸せなんだぜ。それを自ら捨てて、わざわざ危険に飛び込もうとするなんて、やっぱり君、真っ当じゃないな」  君武は俯いた。 「だが――」と志賀は言った。立ち上がり、君武の目前に仁王立ちする。 「俺は嫌いじゃない。それ位の阿呆でなければ俺達の同士にはなり得ないからな」  君武が顔を上げる。  見上げた志賀は、不敵に笑んでいた。  君武は呆然と呟く。 「どういう、事ですか」 「それは――」  ガラガラガラッ!!  雷のような轟音と共に、突如天井が崩落した。 「……!」  驚愕で声が出ないとは正にこの事だ。君武は息を呑んで、志賀の背後を凝視した。何か居る。  土煙の中からむくりと影が立ち上がる。 漆黒の軍服が、合間から覗いた。特公の兵士だ。  その瞬間、志賀が脇のホルダーから抜いた拳銃を、人影に向けた。ドン、ドン、ドンと弾丸が三発放たれる。  衝撃で兵士の体勢が揺らぐが、直後、何事もなかったかのように、それは直立した。  君武は混乱で言葉を失う。確かに弾は当たった筈だ。 「ちっ、やっぱり弐式に銃は効かねえか。ほい」  志賀が忌々し気に舌を打ち、持っていた拳銃を君武に投げて寄越した。  君武は慌ててそれを掴み取る。 「ナイスキャッチ。持っといてくれ」 「えっ!?」 「志賀、抜刀」  志賀が発すると、それが合図のように手の中に白銀の刀が発現する。  君武は目を見張った。まるで夢でも見ているかのようだ。何も無いところから唐突に刀が現れるなど、それこそお伽話ではないか。  志賀は刀身を抜き、鞘を畳へ放った。 「悪いが、話の続きはこいつらを片付けた後でな!」  志賀が兵士に向かい、突進する。  兵士が軍刀を抜き、構える。  二つの得物が、鋭い金属音を放ちぶつかった。せめぎ合い、どちらからともなく弾いたところで、屋内では不利と見たのか、兵士が庭へと後退する。  志賀もそれを追って、部屋を駆け出した。 「志賀さん!」  君武が叫ぶ。 「押し入れにでも隠れてろ!」  志賀は走りながら、振り返りもせずに言った。 「押し入れって……」  君武は辺りを見回す。すると隣室に、正に押し入れらしき襖が見える。護身に使えるだろうと、志賀が置いていった鞘を拾い、君武は隣室へ移動する。取り敢えずは志賀が戻って来るまで隠れて大人しくしているしかないと思った矢先、その瞬間であった。  突然、窓の外から数多の銃弾が撃ち込まれる。 「うわっ!」  君武は咄嗟に畳へ伏せる。這うようにして壁際へ逃れ、身を丸くした。  ガチャガチャと盛大な音を立て、割れたガラス戸が廊下へと飛散した。  数秒の後、発砲音が止み、次いで複数の足音が屋内へと侵入してくる。  顔を上げると、二人の特公兵士が廊下に佇んでおり、瞬間的に視線がぶつかった。  君武は息を詰める。一弾指の間に体勢を起こし、手中にあった銃を構える。無論、武器など使った事はおろか、実際に手にした事すらない。映像や絵、文字の中でその存在を垣間見るだけで、正しい使い方など知らない。見様見真似である。しかし、やらなければ――志賀の言葉が思い出されて、君武は歯を食い縛り、引き金を引いた。  一発、二発。反動で腕が揺らぎ、思う所に狙いが定まらない。その中で、三発目が運よく兵士の頭部に直撃した。衝撃で兵士の首が傾く。  当たったと歓喜したのもつかの間、まるで生気の感じられない漆黒の瞳が、ぎょろりと君武を捉えた。  戦慄する。恐怖で体が石になったかのように固まって動けない。手足から血の気が引き、寒さすら感じるというのに、全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出す。  やはり先刻と同様に、兵士に損傷は見受けられない。おかしい、只事ではない。生身の人間がまともに被弾し、一滴の流血すら見えないなど、どう勘考しようが異様である。目の前の常軌を逸した光景に、拳銃に掛けた指が、無意識に震えた。  兵士が平坦な声色で言った。 「志賀が連れていた一般市民だな。捕えろ」  背後に控えていた部下と思われる方が、君武へと歩み寄る。  その光景はまるでスロー映像のように、緩やかに流れた。一歩、また一歩、兵士との距離が無くなる。  脳が警鐘を鳴らす。逃げろ、今逃げなければ捕まる、足を動かせ、走れ、走れ、逃げろ、逃げろ、逃げろ――!  君武は弾かれたように畳を蹴った。縺れる足を踏ん張り、何とかその場を駆け出すが、即座に詰め寄って来た兵士に襟を引かれ、押し倒される。 「うぐっ……」  やはり逃走者の捕縛には手慣れている。圧倒的早業で背部を押さえつけられ、息が詰まった。身動きの叶わぬうちに両手首を拘束具で縛り上げられ、最早成す術がない。 「本部まで連行する」  それでも君武はじたばたと足掻いた。 「放せ、嫌だ!僕が何をしたっていうんだ!」 「貴様は反政府主義の重罪人、志賀直也と接触していた。加えて禁止図書の取り扱いを行っていた違法書店に出入りしていたそうだな」 「あそこにはただの本を借りに行っていただけで、禁止図書なんて知らない!それにあの人とだって今日初めて会ったばかりだ!」 「証言は本部で聞かせてもらう」  取り付く島もない様子である。  君武は絶叫した。 「横暴だ!こんな事が許されて堪るか!証言なんてさせる気ない癖に!」 「連行中に暴れられても面倒だ。足の一本でも使えなくしておけ」  指示を受けた部下の兵士が、軍刀に手を掛ける。  瞳に涙が滲んだ。  人生とは、こんなにも呆気なく終わるものであったのか。これから待っているのが拷問の末の無残な死のみだと思うと、心が砕けそうになった。  未だ何も成していない。何も変えられていない。希望に繋がると信じて掴んだ糸。その先の結末がこれとは、余りにも滑稽である。  ばちが、当たったのかも知れない。人の忠告を無視して、憂心を無視して、我が道を押し通してきばちが。  ――ごめん、吾子。夕飯までに、帰れそうにない。  自宅で自分の帰りを待つ幼馴染に、心の中で詫びた。別れ際、最後に見た顔が悲しげであった事が、少しばかり心残りだ。 「がッ……!」  奇妙な音が頭上から落ちてきて、君武は失意に伏せられていた瞼を、薄っすらと開いた。  畳にぼたぼたと赤い液体が滴っている。  これは、血だ。一体何処から――。 「なあ、壱式ってのはこんなに軟だったか?前に当たった時はもっと手応えがあると思ったけどな」  志賀ではない。彼よりも低く落ち着きのある耳慣れない声。君武は眼球のみを動かして、その声の先を辿った。  指示を発していた兵士の背後に、ぴたりと影のように何者かが張り付いている。どこから現れたのか、何時からそこに居たのか、微々たる気配も感知出来なかった。  それは刃に貫かれ、胸部から鮮血を流す兵士も同様であったようで、その両眼は今にも眼窩から垂れ落ちそうな程に見開かれている。 「な、なに、が……」  そう切れ切れに発したのを最後に、ずるりと突き刺さっていた刀が引き抜かれ、支えを失った兵士は床に崩れて動かなくなる。  褐色の肌、そして白銀の頭髪を一つに結わえた男が、そこには立っていた。  男の眼が研ぎ澄まされた槍の如き鋭さで、君武を捕縛しているもう一人の兵士を捉える。  兵士は直感的に君武の上から退き、男に軍刀の切っ先を向ける。しかし、攻勢の構えの整わぬうちに、その脳天に銃弾がめり込んだ。  声を発する事もなく、兵士が仰向けに倒れる。  君武は、足元に転がった兵士を見て、訝し気に呟いた。 「倒した……さっきは効かなかったのに、どうして……」  腰に刀と銃を納めた男が、君武の前に片膝を付く。 「あんた、大丈夫か?」 「はい……」 「報告にあった民間人だな」  男は君武の手首に嵌められたままの拘束具を、袖口から取り出した仕込みナイフであっさりと取り外す。  君武は態勢を起こし、自由になった手首を擦った。赤く跡がついていた。 「ありがとうございます」  君武が礼を言うと、男はかぶりを振る。 「いや。それよりもあんたと一緒に居た人はどこに――」  隣室に、何かが吹き飛ぶのが見えた。派手な激突音。次いで、土煙が立ち上る。  男が刀の柄に手を掛けるのを見て、君武は身を固くした。しかし、漂う緊張感とは裏腹に、耳に届いたのはあっけらかんとした声であった。 「いやー、参った参った。雑魚でもこう数が多いと厄介極まりないな」 「志賀さん」  庭からのそのそと上がってくる志賀に、男が警戒を解く。  気付いた志賀は、「お、多喜司」と言って、顔を綻ばせた。  多喜司――革新主義作家の小林多喜司だろうかと、君武は推測する。 「思ったよりも早かったな」 「たまたま近くに居て」 「そうか」 「それにしても、相変わらずやり方が派手ですね」  小林が眉を顰めて言った。  志賀越しに見えるのは、瓦礫と化した壁に混じって力無く項垂れる兵士である。志賀が庭で相手をしていたと思われるが、その両腕と右脚は切断されていて、付近には見当たらない。恐らくは同じような残骸が庭にもう数体ごろごろしている筈だ。 「そんな顔するなって。仕方ないだろ、俺一人で何体相手にしたと思ってるんだ」 「さあ」 「八体だよ」  志賀は皺の寄った小林の眉間をぴんと指で弾き、「ところで――」と君武の方を向いた。 「君、大丈夫だったか」 「なんとか」  君武が答える。すると、弾かれた額に手を当てながら、小林が異議を唱えた。 「いや、大丈夫じゃないだろ。もう少し俺が遅ければ、あんた捕まってたんだぞ」 「そう、ですね……」  君武は俯く。正に小林の言う通り。何も出来ずに、ただ生きることを諦めかけた。 「まァでも、こうやって無事なんだから、結果オーライじゃないか。怪我はしてるけど」  言われて君武は気付く。左腿の布が切れ、赤く血が滲んでいる。押し倒された拍子に硝子か何かで擦ったのであろう。  志賀は尻のポケットからハンカチを持ち出し、君武の前へ屈むと、「ちょいと失敬」と言ってそれを腿に巻き付け、きつく縛った。 「取り敢えずはこれでいいだろ」 「ありがとう、ございます」  下ばかり見つめ、君武はすっかり意気消沈してしまっている。  その様子に志賀は静かな笑みを湛えて言った。 「怖かっただろ」  君武は黙って頷く。 「そりゃあそうだ。死が見えれば誰だって怖い。俺達だってそうだ」 「そんなに強いのにですか?」 「強くなんかない。ただ戦う力を持っているってだけで、常に恐怖は間近にある。要はそれを乗り越えていけるかどうかが肝心。でだ、ここからはさっきの話の続きになるが――」  君武が伏せていた瞼を上げる。  志賀がその金色に輝く双眸で真っ直ぐに君武を見据え、言った。 「君を我が組織、文豪倶楽部へ勧誘したい」
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