第七幕 僕は喜んで命を捧げよう

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 特公本部は、烏都北部側の高台の上にある。  敷地の周囲はぐるりと煉瓦造りの壁で囲まれ、侵入者や逃亡者を防ぐ造りとなっている。  正門の前には見張りの兵士が常に二人体制で佇んでおり、警察本部や政府からの来訪者を出迎えると同時に身元を厳しく取り締まっている。  その奥には二階建ての庁舎。白練の壁が美しい洋館だ。  そこを過ぎて更に道なりに真っ直ぐ進むと、桜の樹木が密集する自然の衝立を抜けた先に舎房がある。中央の見張り所から伸びる五つの細長い平屋棟が半円の放射状に展開され、並ぶ独居房にはおよそ二百名程の囚人が収監可能だ。  一度入れば、二度と生きては出られない。現し世の地獄。  そのような場所に自ら侵入を図ろうなど、無謀の極みである。 「無謀で結構」  生い茂る草木の中に屈んで身を隠した志賀が言った。 「それで多喜司を助けられるってんなら」 「ちょっと」  谷崎が背後から志賀の肩を掴む。 「自分の命が最優先って事、忘れてないでしょうね」 「わかってるっての」  志賀は鬱陶しげに眉を顰めて谷崎の腕を払い除ける。谷崎は「もう」と嘆息して、手を引っ込めた。  小林の救出へ集った六人は、特公本部を囲む外壁の側までやって来ていた。  正門脇数十メートルの茂みに潜むのは志賀と谷崎。更に数十メートル後方の壁際に、芥川、室生、堀、由季夫。  見張りの番兵の動向を確認しつつ、志賀が芥川へ合図を送った。それを受け取った芥川が、一度立ち上がって壁に背を付け、バレー選手さながら中腰になって股の間で手を組む。その手の上に、室生が片足を掛けた。「せーのっ」の掛け声と共に、芥川が腕を振り上げ、室生を上空へ投擲する。室生は軽々と壁上に張り付き、監視の目が無い事を確認してから敷地内へ降り立った。  室生の腰にはロープが括られており、一方の端は芥川が握っている。ちょいちょいと引っ張って、登ってこいとサインを送ると、ぐっとロープが張った。  室生は腰を落として両足を踏ん張り、ロープを握って体重を掛ける。  外側では、堀がぶら下がっていた。「俺鳥目だから暗いとこ苦手なんですよぉ」と文句を垂れる弟子の尻を、芥川が叩く。 「落ちるんじゃないぞ」 「はぁい」  堀が壁に足を付け、少しずつ登り始めた。 「次、由季夫、行け」  芥川からの指名に、由季夫が「はい」とロープを握る。  先行する姿が壁の向こうへ消えるのを確認して、腕に力を込めた。  落下すれば、番兵に感知されるというプレッシャーの中、己の腕力のみが頼りとなる。死んでも手は離せない。  このような形で壁を登った経験など無論皆無に等しいが、堀の見様見真似で由季夫は何とかてっぺんへと辿り着いた。かつてはもやしだ貧弱だと揶揄われたものだが、知らぬ内に随分と筋力が増したようである。  ほっと息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭ってから、地面へと着地する。  室生の腹に腕を回し、力点を補助している堀が、「由季夫君、お疲れ〜」と呑気に言った。  彼と谷崎の同行の功績は多大だ。ゆるりとした言い草に、強張った空気が中和される。二人が居なければ、続く緊張に気負ってしまっていたに違いなかった。  後続の芥川が壁を登り切る。次いで谷崎、最後に志賀が敷地の中へ降り立った。  侵入は容易に成功だ。  付近には明かりもなく、巡回の兵も見当たらない。手薄。いやに静まり返っている。 「何かしら」  谷崎が言った。 「妙じゃない?」 「どっかで事件でもあって出動している、とか」  堀が推考する。 「何にしろ、やりやすくていいだろ。行くぞ」  志賀が先頭に立つ。姿勢を低く保ちながら、夜闇に紛れ、物陰を移動する。  庁舎の側面を回り、青々と葉の茂る桜の森へと踏み込む。  森の中は、月明かりが遮られ、余計に視界が悪い。堀が「暗いよぉ」と小声でぼやくの他所で聞きながら、由季夫は足元に注視した。  至る所に木の根が突き出していて、気を抜くと転倒しかねない。  由季夫とて、夜目はそれほど自信があるわけではない。堀の泣き言を笑っていられる余裕などないのだ。よく目を凝らして見なければ、無様を晒す事になる。それだけは御免被りたい。 「危ない」  咄嗟に腕を引かれて、由季夫ははっとした。  顔を上げた目前に、木の幹が迫っていた。衝突する寸前であった。 「あ、ありがとうございます」  何者か知らぬが、恥をかく前に命拾いしたと、由季夫はおずおずと腕の先を見た。  室生であった。  てっきり芥川か谷崎だとばかり思っていた由季夫は、僅かに喉を詰まらせた。このような時でも、律儀に人見知りは発動する。室生とは、未だそれ程接点が多くなかった。 「気を付けろよ。下ばかり見てると、前方がおざなりになるぞ」  室生がそう言って掴んでいた腕を解放し、立ち呆けている由季夫を追い越して先を行く。その向こうでごちりと音がした。続けて「いた~……!」と堀の微かな呻きが届いた。どうやら幹に衝突したようだ。室生が慌てて駆け寄って行った。  室生は暖かい人物だと、由季夫は思う。周囲には常に人が集まっている。萩原や芥川をはじめとする同年代だけではなく、堀や織田などの後輩からもよく慕われている。由季夫も、萩原と共に読書をする時に、よく菓子を与えられるなどした。にも関わらず、親交が深まらないのは、彼が本当にいつなんどきでも何者かを引き連れて歩いているからで、その親しげな会話の中に割り込む勇気が、由季夫には不足しているのであった。  いつだか萩原が、「無理して仲良くなろうとしなくても、大丈夫だと思うよ。他所を見ているようで、ちゃんと気にかけてくれてるから。そういう奴なんだ、斎星は」と淡々と零した事があった。  まさにそう言う通り、室生は木に衝突しかかった由季夫の手を引いた。由季夫はこの暗がりの中で、自身の足元の事で頭が一杯であったというのに。 「どうした由季夫、小便か?」  後続の芥川が、幹の手前で棒立ちになっている由季夫を見て、そう言った。気づいた由季夫は「違いますよ」とつんとして、再び歩を進めた。 「やだわ、竜ちゃん。お手洗いって言って」という谷崎の苦情に、芥川が律儀に「お手洗い」と答えている。背後で繰り広げられるどうでもいい会話を尻目に、由季夫は漸く森の終着点で待機する志賀と合流を果たした。  開けたアスファルトに差し掛かる直前、木陰で一度体勢を落とし、全員が落ち着くの待っていた志賀は、背後に揃った面子を確認してから顎でその場所を指した。  目と鼻の先、僅かばかり高くなった丘の上に建つ舎房。 「あの中におよそ二百室の独房と、地下の拷問室がある」 「よく知ってるのね。流石は天下のスパイ様だわ」  谷崎の嫌味に、志賀は苦い顔をした。 「今はいいだろ」 「後で説明してもらうわよ。一から十までね」 「はいはい」 「それで、小林君が何処に収監されているのか、目星はついてるんですか?」  室生が問う。  志賀は否と首を振った。 「何処に居るのかまでは……。見て回るしかない」 「正気?」  谷崎が不平を漏らす。 「しょうがねえだろ」と志賀が苛立たしげに早口で言った。 「俺だって多喜司がこんな事になるなんて聞いてないんだ」 「信用されてないのね」 「うるせえ」  言い争いの間に、堀が「まあまあ」と割って入る。 「純、茶々は後にしろ」  芥川が谷崎をそう窘め、次いで志賀を向いて言った。 「どうするんですか、兄さん。全てを見て回っていては、時間が掛かり過ぎます」 「わかってる。侵入後は三手に分かれる。全員で動き回ってちゃあ、効率が悪いからな。戦力の分散は危険だが、致し方ない。俺と由季夫、斎星と竜雄、竜之介と純一郎でツーマンセルを組む」  志賀は、それぞれに指示を出した。斎星のチームは五棟ある舎房を端から時計回りに、芥川のチームは反時計回りに、そして自身のチームは地下の捜索を行う。  全員が了承を示した。 「行くぞ」  志賀が先陣を切って森から飛び出す。その後を、由季夫らは固まって辿る。  アスファルトを突っ切り、舎房へと続く階段を一気に駆け上がる。  途中、建物の後部に佇む見張り櫓の存在がちらりと由季夫の視界の掠めた。しかし、そこにすら兵士の姿は見えない。妙な不安が一層増す。  玄関扉に張りついた志賀が、僅かに板を押した。施錠されていない様子の板は、キィと微かな音を鳴らす。  そろりと猫のようなしなやかな動きで、志賀が内部へ潜入する。その瞬間、中央の監視室の中に棒立ちになっていた二体の兵士が反応を示した。 「侵入者」  片方が声を上げ、もう片方がすかさず軍刀を抜いて部屋の外へ躍り出た。 「ちっ、ここには居るのかよ」  志賀が舌を打つ。同時に素早く召喚された刀の柄を握り、数歩で一気に距離を詰める。  相手は反応出来ていない。どうやらこれは参式のようだ。  ならば苦戦する事もない。志賀は一手にして兵士の首を刎ね上げた。  監視室の中では、もう一体が黒電話の受話器を手にしている。庁舎へ連絡を取るつもりであろう。しかし、ダイヤルを回す指より早く、ガラス窓を貫通した鋼が額深くへ突き刺さった。室生の仕業であった。 「ナイス、斎星」  志賀の称賛に、室生が「なんの」と答えた。  二人の素早い対応に、由季夫は唖然とした。志賀が相当の使い手である事は見知っていたが、それに引けを取らない室生の俊敏な行動に意表を突かれたのである。噂には聞いていたが、室生が倶楽部でも一二位を争う実力者であるというのは、なるほど真の事実らしい。  由季夫の背後では、同様に様子を覗き見していた堀が、「あ~ん、斎星先生カッコイイ~」と乙女になっている。気の多い男だと由季夫は呆れた。 「お前らも刀だしておけ」  志賀が室生を除いた面子へ呼びかけた。  由季夫は魂魄刀を召喚し、腰のベルトに取り付けてあったホルダーへ固定する。いよいよ、ただならぬ緊張感に身が強張る。  全員が召喚を終えた事を見計らった志賀が言った。 「ここからは作戦通り三手にわかれる。いいか、もし身に危険が及ぶような事があれば、迷わず逃げろ。捜索が終わったら順次、森の中で待機だ。以上、散開」  号令と共にそれぞれのチームが持ち場へ散っていく。しかし、芥川だけが少しの間、由季夫の側へ留まっていた。 「由季夫」  芥川が、真っ直ぐ由季夫を見詰める。  由季夫は、その精悍な瞳の奥で彼が何を思考しているのか、手に取るように察せられた。 「わかってます。無茶はさせませんから」  由季夫はそう、力強く答えた。  芥川はゆるりと走り出して、谷崎の後を追った。  己のちっぽけな力で、一体どれ程の事が成し得るだろうか、わからない。もしも志賀が我を失ってしまったら、過去の芥川のように止める手段を持つのかどうかも。しかし、やらねばならない。命を賭しても、やらねば。それが今己に課せられた使命なのだ。 「由季夫、俺らはこっち」  志賀の手招きに、由季夫はそそくさと寄った。  監視室の机下に取っ手のついたレバーが見える。志賀がそれに指をかけ引っ張ると、がこりと何か音がした。  監視室の外へ出てみると、部屋の後ろ側の床がぽかりと口を開けている。その内に、階下へと続く階段が隠されていた。 「この下が拷問室だ。俺もここまで降りたことはない。十分用心するぞ」 「はい」  由季夫は刀の鞘をきつく握り締めた。  志賀が階段を下る。由季夫がそれに続く。  コンクリートで固められた冷たく無機質な壁が続いている。蛍光灯が点在していても、薄暗く、加えて何か異臭がする。この下にあるのが拷問室というのであれば、つまり、これは血や肉のそういった臭いであろう。  由季夫は軽く嘔吐感を覚えて、余計事の思考をやめた。  数段先を行く志賀の後頭部を見詰め、ただ黙々と足を進める。  踊り場を二つほど過ぎると、階下へ辿り着いた様子であった。  階段はフロアの一番端にあるらしい。志賀が壁にぴたりと身を寄せ、奥へと続く廊下の先を覗く。そうしてすぐに立ち上がって、背後の由季夫へ耳打ちした。 「ドアが二つ見えた。兵士の姿はない。通路はその先にも続いていて、恐らく丁字路になってる」 「ドアに鍵はかかっているんでしょうか」 「わからん。それらしい鍵穴は見られなかった。もしかすると、階段の入口が開閉式になっているから、鍵は付いていないのかも知れない」 「そうだと楽でいいんですけど」 「だな。準備はいいか、進むぞ」 「はい」  志賀が壁から身を翻し、素早く二つ目のドアへ付く。由季夫は一つ目のドアのノブを握った。二人して同時に鉄の扉を押す。やはり鍵はかかっていない様子で、易々と扉は開かれた。  房の中は暗く、強烈な臭気が鼻につく。由季夫は眉を顰めた。  辺りを視線で探るが、人らしき影は見当たらない。  早々に扉を閉めて、由季夫は志賀に寄った。 「こっちには何もありません」  志賀も同様に首を振る。 「ここもだ。奥行くぞ」  二人は連れ立って廊下を進んだ。  突き当りに差し掛かり、志賀が角からそっと先の様子を窺う。志賀の予測通り通路は丁字路になっていて、左右それぞれの壁に先刻と同じ様式のドアが一つずつ配置されている。 「誰も居ないな。俺は左を見る。由季夫は右を頼んだ」 「はい」  志賀と由季夫は角で別れた。  奥行十メートル、幅は畳横置き一畳といった程度の狭い通路。その中間程に、ドアが佇んでいる。  由季夫は、取っ手を握り、僅かの間躊躇った。再びあの臭気に晒されるかと思うと、少しだけ気が滅入った。しかし、ここに小林が囚われているかもしれない以上、開放せぬわけにもいくまい。  ゆっくりと、鉄を押す。重苦しい軋みが響く。  廊下から差し込む薄明りの中に、横たわる何者かの胴体が浮かんだ。  由季夫はぎょっとして目を凝らす。闇にぼやりと滲む、白い頭が見えた。 「多喜司、さん?」  ぴくりと微かに何者かの肩が動いた。  由季夫は、はっとして左方の部屋に居る志賀を呼びつけた。 「志賀さん!」  気付いた志賀が通路へ戻るのを見届けて、由季夫は房へ入った。横たわる人影に近づき、顔に掛かった前髪を退けてその人相を確認すれば、それは紛う事なく小林本人の姿であった。  身に纏ったシャツの至る所に出血が滲み、露出した腕や顔面には幾つもの痣が斑点としている。  駆け付けた志賀が、その無残な姿に一瞬息を呑んで立ち尽くし、ふらりと部屋へ足を踏み入れると、小林の手前で力無く地面に膝を付いた。 「多喜司、多喜司……」  悲痛な面持ちで何度も名を呼び、頬に触れれば、僅かに睫毛が震え、閉ざされた瞼がゆっくりと持ち上がった。  闇に霞んだ瞳がおぼろげに揺れる。 「直也、先生……?あれ、俺、夢でも見てるのかな……。先生が見える……」 「夢なわけあるか馬鹿。助けに来たんだよ」 「助けに……?何で、来たんですか」  ぼんやりとしていた意識が次第に明瞭と化して、語尾に生気が灯る。 「早く、逃げてください。俺は餌です。これは、罠なんです」  その言葉と同時であった。三人の真上に影が差し、次いでぬるりと這いずる蛇のような声音が房に反響した。 「おやおや、誰が飛んで火に入ったかと思えば志賀直也ではないですか。ここに居るという事は、裏切ったのですか、貴方」  志賀が背後を振り返り、相手を睨めつける。 「深川」  地の底から湧き出すかの如き憎悪の籠った低い呻きに、声の主は心底愉快げに口唇を歪めた。  深川夢彦。階級は大尉。総督補佐官の任に着く、特公軍の第三位。知り得る情報はその程度であるが、仮にも命令を下す立場の者が何故このような場所に、と由季夫は警戒した。  深川はくるくると指で長い煤色の毛を弄びながら言う。 「こうなるだろうと予見はしていましたよ。閣下に気に入られているというだけで、所詮は薄汚れた裏路地の鼠。だからさっさと切り捨ててしまった方がよろしいと進言したのに、閣下ときたら」  志賀がゆっくりと立ち上がり、刀を抜刀する。 「ぶつぶつうるせえんだよ、根暗。そこを退け」 「まあ、野蛮。いいですよ、やりましょう。貴方がその気ならいくらでも」  後方に控えていた兵士が、上官を庇う姿勢で前へ出る。 「嗚呼、でも――」  深川が、ふふふと不敵に笑んだ。 「間違って殺してしまったらごめんなさいね。私、貴方の事嫌いなので」
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