第七幕 僕は喜んで命を捧げよう

5/7
45人が本棚に入れています
本棚に追加
/97ページ
 聴覚を裂くような鋭い音が、コンクリートの壁に反響している。繰り出される連打によって微細に震える刀身が、身を寄せ合う度に甲高い鳴き声を上げる。  際限のない乱打。志賀が通路の後方へ飛び退き、腿のホルダーから拳銃を引き抜く。猪突猛進に襲い来る兵士へ銃口を向け、一発、二発、三発。しかし、敵の硬い皮膚は当然の如く弾を跳弾する。  無駄事であると理解はしている。だが、志賀には何らか、この戦況を打破する為の何らかのアクションが必要であった。  いつまでもここでだらだらと遊んでいるわけにはいかない。由季夫と小林が上層の一行と合流する時間を稼ぎ次第、離脱の算段をしていた。しかし、思いのほか、兵士は手強く、強靭であった。それもそのはず。相対するは零式・鶴。砂塵の会襲撃事件にて堀口佐藤と斬り結んだ相手だ。  再び、剣が交差する。勢いに任せ、僅かに押し込まれる形勢を、足の指先に力を込めて踏み止まる。  カチカチと音を立てる刃先の向こうで、蒼白の顔面がにやりと口唇を吊り上げた。 「随分息が上がってるじゃねえか、なあ」 「黙れ」  志賀は唸った。  相手は疲労知らずの人形。対してこちらは、幾ら能力強化を施していようが生身の人間だ。激しい動作によって心拍は上昇し、より多くの酸素を欲して呼吸は荒れる。無論、心肺機能とて強化されているものの、それでも平静を保っていられない程の苛烈な打ち合いである。  志賀は不意に刀を傾け、身を捻った。相手の側面に回り込み、素早く頸部を狙って刃先を滑らせる。しかし、零式もまた、獣の如き反射速度で肩を引き、膝を折って体勢を沈めると、隙だらけの足元を払った。間一髪、それを察知した志賀は、跳び上がって、同時に零式の頭部を両脚で挟み込み、床へ向かって投げつけた。  硬い頭部と接触したコンクリートに、バキリ、とひびが走る。  志賀はぜいぜいと肩を上下させながらも、即座に零式から身を離した。後退りながら様子を窺う。  人形はその操り糸が切れたかのように、動かずにいる。しかし、一瞬の後、ぎょろりと目玉が志賀を見た。 「いってーな。脳味噌潰れたらどうしてくれんだ」 「脳味噌なんて入ってねーだろうが、ぽんこつ」  吐かれた悪態に、のそりと体躯を起き上げながら零式が対抗する。 「このクソガキ。少し前まで崇石の後に引っ付いて歩いてたくせに、あの頃の可愛さは何処に落っことしてきちまったんだ」 「てめえ、まだ言うか……」  志賀は呻く。  兵士は宣ったのだ。我こそはかの天才革新派作家、正岡四季であると。  革新派勢力の第一次台頭期に旗頭としての役割を担っていたのが団体アララギ。己の信条こそ誠の正義と声を上げる小規模の結社が多数点在する当時の界隈で、唯一五十余名の会員数を誇っていた組織。正岡四季は、その首領であった。夏目一門とは懇意の間柄であり、まさしく親戚のような関係性で交際していた。志賀にとっては、叔父ともいえる存在。しかし、正岡は既に故人である。四年前の話だ。倶楽部発足の少し前、彼は特公の手に落ちた。恐らく夏目が倶楽部への所属を決めた要因も、この件にあるだろうと志賀は睨んでいる。だが、師は多くを語らなかった。  これは故人に対しての冒涜である。反政府反特公を謳っていた者の名を語り動揺を誘おうなど、無礼千万。  そのような軽率な手に誰がかかるかと頑なな姿勢に、零式は辟易と言った。 「お前も人の話を聞かねえな、直也。そういうとこあいつとおんなじだ」 「ごみが知った風な口利いてんじゃねえよ」 「誰がごみだ、こら。そりゃあ、この見目で理解しろって方が無理だとは思うが――」 「監察兵!」  零式の台詞を遮って、背後から怒号が届いた。 「いつまでも何をたらたらと!無駄口を叩く暇があるなら、さっさとその男を始末なさい!」  キイと得意の癇癪交じりで喚く深川に、零式は軍刀を肩に預け、口をへの字にして振り返る。 「補佐官殿よお、俺ぁ一介の兵士だからな、命令には従うぜ。ただよ、あんたのそりゃあ私怨だろうが。好き嫌いで人を斬る気にゃならねえな」 「私怨?」  志賀は心当たりのない話に眉を顰める。志賀が接点を持つのは総督である杉本のみであり、補佐官の深川に関して言えば、ほぼ初対面に等しい。無論、敵対する組織同士での恨みはあろうが、私怨を買うような真似をした覚えはない。 「何の話だ」  志賀の問いに、零式はうんざりと言った。 「あのお人はなあ、お前に嫉妬してんのさ。お前が閣下様に大層気に入られているもんでな」 「お黙りなさい!」  深川が憤慨する。 「だから何だというのです。ええ、気に入りませんとも。閣下はいつもいつも、口を開けば志賀、志賀、志賀。私の方が美も頭脳も血も優れているというのに、何故閣下は私を見て下さらないのか!貴様の何処に私に勝るものがあるというのです。え?言って御覧なさいな。どうせ色目でも使って閣下を惑わしたのでしょう、この淫売が!嗚呼、下劣!不浄!汚らしい!」 「見た目と違わず自尊心の塊だな。お前みたいなやつが居るから、この国は腐っていく一方なんだよ」  妬み嫉みの罵詈雑言に、志賀は馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。  深川の白色の肌が、怒りで紅潮する。 「ええい、その愚劣な口を閉じろ!監察兵!早く殺せ!」 「御免蒙る」  零式から放たれた一言に、深川は唖然と口を開けた。確信していたのはAye,sirの返答。誤聞と数秒の思考停止の後、深川は呆然と言った。 「……何ですって?」 「断ると言ったんだが、聞こえなかったか?」 「断るだと?ふざけるな!これは命令だ!」 「だから言ってんだろうがよ、怨恨に手を貸す気はないって。やりたいんならあんたがやりな。そういうもんには自分の手で蹴り付けるこった」  言い放って、零式は深川の足元に軍刀を放った。かしゃりと音を立て床に投げ出された武器を、深川は見下ろす。ふつふつと湧き上がる暴力的なまでの怒りに呼吸を乱されながらも、深川は腰を折ってその柄を拾い上げた。 「いいでしょうとも。鼠の血を浴びるというのも、また一興。高貴な私の鮮烈なる一撃で、醜き肉塊にして差し上げましょう」  深川がすらりとしなやかな動作で片手に握った軍刀を構える。  零式は後ろ手に腕を組み、壁際へ寄って、通路の中央を譲った。すました顔をしている。どうやらこの展開で状況が如何な顛末へと転がろうが、一切関知しない姿勢である。  志賀は横目でちらとその様子を認知して、ならば良い機会と深川へ切っ先を向けた。 「後からの苦情は受けねえぞ」 「好きにしな」  零式は肩を竦めた。  志賀は息を吐き、刀を一度鞘へ納刀する。  特公の幹部と対峙するのはこれが初となる。当然、A因子を投与されているはずで、その実力が如何なものかは未知数。油断は出来ない。しかし、専ら庁舎に引っ込んで安全圏から指示を出すだけの存在だ。現場を知らぬ怠け者を相手に、負けは許されない。 「さあ、どこからでもかかってらっしゃい」  深川が啖呵を切る。  志賀は息を詰め、コンクリートを蹴った。鍛え上げられた俊足で即座に間合いへと入り込み、低い体勢から鯉口を切る。超速の居合い。 「ひぎゃ」と情けない悲鳴が響いて、噴出した赤い飛沫が志賀の顔面を濡らした。  どたり。軍刀を振り上げたままの姿勢で、深川が床に倒れた。 「………」  志賀は刀を振って血を払い、納刀。「おい」と零式に向かって呼び掛けた。 「こいつ……」 「何でも血が穢れるとかで、A因子を打たなかったらしいな」 「知ってて放置かよ。白状な部下だな。で?」  志賀は零式に向き直って言った。 「どうすんだ、お前の上司は死んじまったが、続けるってんなら相手になるぜ」  再戦の布告に、零式はその作り物の面をへらりと歪めてみせる。 「いいや、今日の所はよしておこうや。お前は先に逃げた奴らの後を追いたいんだろ?俺は後片付けをせにゃならんからな」  億劫と耳の裏側を掻きながら死体へと歩み寄る姿の零式を、志賀はじっと視線で追う。その仕草に、過去の面影が映る。記憶の奥の正岡も、何か面倒事がある度にそうして耳やうなじを引っ掻いていた。  決して信じ難い。しかし、兵士が死人の魂魄を利用して造られるというのなら、まるきり別人と決めつけるのもまた難儀な話だ。 「あんたが四季先生だってんなら、戦えんのか、崇石先生とも」  深川であったものの手前で膝を屈めた零式は、その掠れた問いかけに、一考の間もなく答えた。 「無論だ、俺は正岡四季であって正岡四季じゃあないからな。言っただろ、命令には従うってな」  志賀は舌を打って、踏み出した。  やはり過ぎ去った過去の幻影になど縋るものではない。  今は、生きる命が大切だ。  志賀は通路を真っ直ぐに突っ切って、角へと差し掛かる。決して振り返ってなどやらなかった。  数十分前に下った階段を、一息に駆け上がる。  所々に斑点する血痕が、無造作に内心を掻き乱した。  開けっ放しの天井から降る真新しい空気に、漸く多少の安堵を覚え、志賀は地上へと身を乗り出す。 「兄さん!」  途端に芥川の声がして、振り返ると同時に長身痩躯が纏わりついた。 「よかった、無事だった」  ぼんやりと哀歓の滲む声音に、どしたものか、志賀は手のやり場に困った。 「な、何だよ、突然。無事に決まってんだろ」 「由季夫から聞きました。下で零式の相手をしたと。この血は……」  志賀の顔面やシャツを染める赤黒いシミを目にして、芥川は言葉を失う。志賀は、胴に巻き付く腕を鬱陶しげに払い、「俺の血じゃねえよ」と突き放した。 「それよか――」  壁に凭れて瞼を閉じている愛弟子に寄って、志賀は呼びかけた。 「多喜司」  うっすらと青藍の瞳が覗く。 「大丈夫か。もうすぐ帰れるからな」  師の一言に、生気の薄れた小林の口角が少しばかり持ち上がった。志賀はその目元を愛おしげに撫で、次いで即座に表情をきつく引き締めると、芥川へ向き直って言った。 「で、この惨状は一体どういうわけだ」  崩壊した監視室、割れたコンクリートの床、生々しい刀傷に抉れた木柱――激しい戦闘の痕跡。 「零式がこちらにも現れました」  芥川が返答する。 「近頃話題になっていた例の女形です。斎星と戦闘になって……」 「活性抑制剤を使ったのか」  項垂れる堀の脇で意識のない様子の室生を見て、志賀は悟った。芥川が「はい」と頷く。 「そうか。それで零式はどうした。倒したのか?」 「いえ、それが……」  事情は数分前へと遡る。  由季夫と小林が地下からの帰還を果たして直後の事だ。 「さて、そろそろ」  そう言って零式が室生の傍を離れた。出入り口の方へ向かってするする歩む後ろ姿に芥川が「おい」と言う。 「何処へ行くつもりだ」 「何処って仕事に戻るんだよ。見回りをサボタージュしているんでね、あまり不在にすると不審に思われる。ああ、そうだ――」  零式が不意に立ち止まり、振り返って言った。 「どうせ壁を越えてきたんだろうが、そうも怪我人が居たんじゃ難儀だろう。帰りは裏口を使うといい。この建物を正面から出て右に行くと、トタンの掛かった穴がある。以前何処だかの反政府が攻めてきた時に空いた穴でね、直されていないんだ」 「何故それを」 「なに、ただの気まぐれだよ……。もともとこの事態は深川補佐官の独断でね。君達が逃げおおせようがここで死のうが、大した問題じゃあないのさ。だが、次に会った時はこうはならない。覚悟しておくことだね」 「臨むところだ」  芥川の毅然とした返事に、零式は薄く笑みを浮かべると、今度こそ舎房を後にした。 「そういうわけです」  事の次第を窺い知った志賀は、「そいつは……」と何かを小さく言い掛けて、やはり否と口を噤んだ。 「出て右だったか。早く脱出しよう」  話しは帰還後で事足りる。それよりも怪我人が多い。捲り上げた袖口から覗く芥川の前腕は痛々しく腫れ上がっており、堀は先刻から脇腹辺りに手を置き、しきりに気にしている様子だ。谷崎はそれほど目立った外傷は見受けられないものの、小さな擦り傷切り傷から血が滲んでいる。中でも小林は早急に病院へと連れていかなければ命に関わる。 「俺が先頭で出る。竜雄は歩けるか」 「はい、大丈夫です」  堀からやや固い声音が返った。やはり調子はよろしくないらしい。 「斎星は純がおぶれ。竜は殿。由季夫は多喜司の事を頼む」  足元の由季夫に対し、志賀がそう声を掛ける。頷く由季夫を見やって、他の面々が億劫ながらに腰を上げるのを見届け、志賀は先導した。  建物の外へ出てみると、僅かに空が白んでいる。  小夜に洗われた真新しい空気が、昨日の湿気た名残を含みながらも、涼やかに肌を撫ぜる。  もうすぐ夜が明ける。  周囲には変わらず何の気配もない。これは深川の独断であるということから、恐らくは中まで誘い込んでけりをつけようという思惑で人払いをしておいたのだろうが、それらは哀れにも悉く裏目に出ている。しかし、お陰で侵入も脱出も容易に済むというのであるから、皮肉にも深川様様というわけだ。  階段を下って、アスファルトを左手に進む。  志賀を先頭に、谷崎と堀が続き、その後方を由季夫が付いて歩く。  由季夫は肩に掛かる小林の体重に意識を置いて、ゆっくりと、その歩幅に合わせて一歩一歩足を出した。小林は項垂れて、立っているのもやっとのような状態でいる。呼吸は浅く、短い。  正直な事を言えば、由季夫は特公に捕えられた人間がどのような末路を辿るのか、知識として認識してはいても、実情は全くの無知であった。  地下の部屋で、粗雑に転がされている小林を目撃したその瞬間の衝撃は、未だに由季夫の心臓を縛り上げて、下手をすれば体が震えだしそうな程の恐怖――否、それだけではなく、無念や悔恨、悲痛など、言葉のみではまるで言い表せない複雑な感情に苛まれている。兎に角、泣き出さないように振る舞うだけで精一杯なのであった。  これが、この国で行われている非道の実態。兵士は人形だとしても、組織の上層に座するのは人間であるはずだ。何故、このような惨い仕打ちを成せるのか、容認できるのか。心は痛まないのか、何も思わないのか。奴らは本当に、人なのであろうか。  腐っている。この国は、腐敗している。許されざる醜悪が蔓延っている。  そこで、由季夫ははっきりと理解した。倶楽部が真に戦うべくとしているのは、まさにこの醜悪なのであると。  弱き者を虐げ、意にそぐわぬ者を切り揃え、一部の者のみが心地よい世界へと地を均す。そのような不正があっていいはずがない。金持ちだろうと貧乏人だろうと、才人だろうと凡人だろうと、男だろうと女だろうと、人は人だ。そこに差異などあってはならない。世界は平等であるべきだ。意志は自由であるべきだ。だのに、大勢の人々はその醜悪を当然として受け入れている。権力で支配され、仮初の自由に満たされ、思考せず、ただ流されるがままにしている方が、楽だからだ。逆らわず、己とその周囲とが平凡な幸福で生涯を終える事が出来れば、それで十分だからだ。その通りだ。しかし、由季夫は思う。この世界へ足を踏み入れて、戦う人々を傍らで見てきた。彼らは皆、確固たる己を持っていた。個性的すぎる程に個性的で、諍いを恐れず、本音をぶつけ合い、愛し愛され、偶に憎まれ。それは一般社会には存在し得なかったものだ。幸福の為、弱みを見せ合う事も出来ずに、厚い仮面を被って、同調こそが正義とされる、あの社会には。  輝いているのだ。何もかもがきらきらと。笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒り。人と人が頑丈に編まれた縄の如き絆で結ばれている。  どちらが正しく、どちらが間違っているかなど一概には言えない。しかし、由季夫はこの輝くものを守りたいと思った。何者の支配も受けず、まことの自由に生きる、その光を。  取り留めのない事を思考しながら、のろのろとした足取りで漸く壁際へと辿り着けば、人二人が並んですれすれに通り抜けられる程度の大きな穴がぽかりと口を開けていた。穴を覆い隠してあったトタン板は志賀が動かしたのであろう脇にずらされ、穴の向こうには鬱蒼とした森林が広がっている。この中を山下まで徒歩で下るとなると、小林には少々荷が重いかと思われる。すると、後続でトタンを元の位置へ動かしていた芥川が、「由季夫」と言った。 「この森を向こうの方へ少し歩くと、恐らく獣道に出る」  芥川は、斜め左方向を指差している。 「そこをある程度下ると、見晴らしのいい高台があるはずだ。俺が先に下に行って車を持ってくるから、お前は多喜司を連れてそこで待っていろ」 「はい」  芥川は颯爽と小走りで森の中を進んでいった。  その背を見届けて、由季夫は芥川の指した方向へと歩を進めた。  やはり塗装されていない地面はふかふかと足が沈んで不安定だ。暗く、突き出た木の根や背の低い植物が行く手を遮る。  由季夫は神経を張り巡らせた。成る丈、小林に負担の掛からない場所を選んで、慎重に森を抜けた。そうして暫くすると、芥川の言葉の通り、車一台分が辛うじて通行出来る程度の獣道へ出た。獣道と言えど、踏み固められた土やはっきりとした道筋のなんと喜ばしい事か。 「多喜司さん、大丈夫ですか。もう少し、頑張って下さい」  朦朧と項垂れている肩口の小林へ向かってそう呼びかければ、耳元で小さく息継ぎがあった。 「由季夫……」  小林が発した。 「迷惑かけて、ごめん」  苦しげで力の無い声だ。  由季夫は胸が引き絞られた。しかし、ここで己までもが悲しくなってしまってはいけないと、敢えて、明るい返事をした。 「何言ってるんですか。迷惑だなんて思ってないですよ」 「俺の、せいで、みんなを、危険な目に合わせた」 「多喜司さんのせいじゃないです。皆さん自分の意志で選んだ事なんですから。それに、多喜司さんが僕達の立場だったら、同じことするでしょう」  小林は微かに笑んで、「そうかも……」と呟いた。 「だから何も、多喜司さんが責任を感じる必要なんてないんですよ」 「優しいな、由季夫は」 「やめて下さい。優しくなんて――」 「優しいよ……。だって、由季夫は、俺の事嫌いだろ……」  どきり。嫌な鼓動が胸を打った。一時、僅かに呼吸が止まる。それは図星を突かれた故であった。  由季夫は小林を疎んでいる。 「それなのに、こうして助けに来てくれた……」  小林の嬉しげな一言に、由季夫は動揺と罪悪感で押し潰されそうになった。気付いていながら、何故、そのように笑うのかと。 「何で、そんな事……」 「わかるよ。俺もおんなじだからさ。志賀さんを誰にもとられたくないって、独り占めしたいって、そういう気持ち。あの人は、ずるい人だから、そうやって、すぐに俺達の心を奪っていって、離してくれないんだよな……。俺も嫉妬してたよ、志賀さんが、俺じゃなくて、お前を構ってる時、何でって。弟子は俺なのにって。だから、わざと邪魔をした時もあったよ。気付いてた……?」 「いえ……」  思い当たる節は幾つかある。志賀と谷崎とテラスで談笑していた、あの時分などがまさにそれに当たるだろう。しかし、素直に受け入れるのも癪に感じて、由季夫は敢えて首を振った。  小林は、小さく息を吐き出す。 「はは、そっか。やっぱり大人げなかったなあ……」 「多喜司さん、あんまり喋ると体に障ります」 「そうだな、わかってはいるんだけど、何だか今は無性に話がしたくて。それに、由季夫とこうして二人きりで話せる機会も、もうないだろうし」 「そんな事ありませんよ。話そうと思えば、いつだって話せます。同じ家に住んでるんですから」 「それも、そうか……」  ぐっと肩口が重くなる。重心が引っ張られ、足元が揺らいだ。 「た、多喜司さん……!」  力の失われた小林の膝が、地面に落ちる。傾いた体を支える事叶わず、由季夫はその場に崩れた。慌てて起き上がり、横倒れになった小林の傍へ寄る。 「多喜司さん、しっかり」  上半身を抱き起して腕に抱える。暗闇の中では判然としなかった面持ちが、薄明の光の元でさやかとなる。  小林の面は、真っ青になっていた。血の気が引き、生の温もりがすっかり失われてしまっていた。 「多喜司さん、多喜司さん!」  由季夫が必死に呼びかければ、淡く瞼が揺れて持ち上がる。しかし、それは覚束ずに不安定に震えている。今にも再び閉ざされて、二度と――。  そうはさせまいと、由季夫は頻りに小林へ声を掛け続けた。 「多喜司さん、もうすぐ迎えが来ますから、頑張って下さい」 「もう、十分頑張ったよ、俺……辛くても、痛くても、泣かなかったよ。だから、もう、寝かせてよ……母さん……」  走馬灯を見ているのだろうか、小林は虚ろとそう呟いた。  由季夫は小林の手を握って叫ぶ。 「駄目ですよ、寝たら駄目です!志賀さんを残していく気ですか!そんなの、そんなの絶対駄目です!」 「しが、さん……しがさん……」 「あの人の事大事だって、誰にも渡したくないって、言ったじゃないですか。だったら守って下さいよ、最後まであの人の事、ちゃんと!」 「由季夫……」  青藍は、ぼんやりと空を向いている。 「一人に、しないであげて欲しい……一緒に居てあげて欲しい……先生が辛い時、俺は、何もしてあげられなかった……何も言ってあげられなかった……だから、先生は一人でどこかに行ってしまった……俺が、もっと、強ければ……俺が、もっと……そうすれば、倶楽部を裏切ろうなんて、思わなかったんだ、きっと……。でも、俺には出来なかった……。何でも一人で抱え込んでしまうから、本当は、すごく繊細で、脆い人なのに、強がって、何でも一人でやろうとするから……だから、支えてあげて……手を、離さないであげて……」 「それは多喜司さんの役目じゃないですか。怪我治してもらって、元気になったら、貴方がまた志賀さんの手を引いてあげればいいじゃないですか。何でそんな事言うんですか、諦めないでください!」  小林が薄く笑みを浮かべる。その頬を眩い光が照らした。  眼下に広がる街。高いビルと山々の合間から、真新しい太陽が顔を出している。いつの間にやら、二人は高台の上へと辿り着いていたようだ。視界一杯に広がる美しい街並みを向いて、小林が感嘆する。 「綺麗だなあ……。この街は、とても美しい。初めて来た時もそう思った。賑やかで、便利で、お洒落で。美しい人が沢山居て、美しいものが沢山あった。ただ、今は少しだけ、霧に覆われてしまっているだけなんだ。それを払ってやれなかった事が、心残りだなあ……」 「……多喜司さん……」 「由季夫。大丈夫だよ。心は、置いていけるから。だから何も、悲しい事なんてないんだよ。俺はいつだって、みんなの、傍に――……」  僅かな力で由季夫の手を握り返していた指先が、ゆったりと離れた。  由季夫は息を飲んだ。心臓がどくどくと早鐘を打ち、鼻の奥に痛みが差す。息が出来ない。喉が震える。 「多喜司さん……?多喜司さん、多喜司さん、多喜司さん!嫌だ、多喜司さん!!」  呼びかけても、肩を揺さぶっても、弛緩した体は悪戯に揺れるばかり。 「嫌だ……」  疎ましく思っていようとも、このような結末を、別れを望んだ事など一度とてありはしない。  初めて出会ったあの日、突如目前に現れた彼をどれほど心強く思った事か。忘れもしない。強く、凛々しく、真っ直ぐに通った一本筋は決して何者にも手折られる事無く、そこに在り続けるものとばかり、信じて疑わなかった。だからこそ、疎んでいたのだ。到底自分には届かぬ厚過ぎる壁と。  それが、こうも容易く奪われるのか。  これが、反逆者の末路だと言うのか。それならばあまりにも無情だ。  だというのに、明々と輝く朝日に照らされた小林の表情は、ただただ穏やかに安らかに、そして幸福であった。
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!