Prologue

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Prologue

 男は走っていた。  背後から迫り来る幾つもの足音から逃れようと、必死に地を蹴っていた。  暑くもないのに汗が飛び、寒くもないのに背筋が冷える。心臓が激しくポンプし、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。  ついていない。今日に限って月が明るい。どこまで走っても伸びる影を掴まれているかの如く奴らは追ってくる。  後ろを振り返れば、十分に開いていたはずの距離が徐々に縮まっている。  男は奥歯を噛んだ。――こんなはずじゃない、こんなはずじゃなかったんだ。やれるはずだった、だってあいつもやれたんだ。一人でも完遂できる。道筋は立っていた。  考えが甘かった。敗因はただそれしかない。 「止まれ!」  声に、男は息を呑んだ。前方から新たに三つの影がこちらへと迫ってきていた。  挟まれた。咄嗟に足を止め、真横に口を開ける暗い路地へと飛び込んだ。しかし、直後に後悔はやってくる。救いを求めたはずの道に続く先などなく、高い壁によって進路は阻まれていた。ビルの背面部であろう、とても越えられる高さではない。  男は顔を歪めた。 「どうやらここまでのようだな」  低い声音に振り向けば、入り口は既に塞がれてしまっていて、背後は壁、逃げ場を失っている。  男はじり、と後ずさった。  漆黒の軍服に身を包み、腰には軍刀。帝国政府の紋様を飾った軍帽を目深に被り、その表情には一切の変化がない。まるで人形のようにも思える兵士が七人、異様な光景に恐怖が湧き起こる。 「捕えろ」  中央に立つ兵士――部隊長の指示に応え、四人の兵士が鞘から軍刀を引き抜いて、男との距離を詰めた。迫る刃が一斉に降りかかる。  男は、諦めた。ここで果てるのだと。嗚呼、何も残すことが出来なかった。細く短い人生だった、と。 「なに諦めてんだ」  その一声は、突如頭上から現れた。  男の目の前に二つの影が降り立つと同時に、刀の閃光が四人の兵士を薙ぎ払った。二人は間一髪、軍刀でその一閃を堪えるが、二人は対応しきれず、投げ飛ばされるように地面に転がった。  威力は人間の出力を超えている。そもそも、側面に立つビルは四階建てであり、飛び降りて平然としていられること自体、既に異質だ。しかし、頭上から降って来たのだから、彼らは疑いようもなく飛び降りたということだ。  ただ者ではない新手の登場に、無色だった部隊長にも動揺の色が混じる。 「何者だ!」  砂埃が舞う路地の中に響いた怒声に、落ちてきた二人の青年は余裕の軽口を叩く。 「嫌だねー、こないだ会ったばっかりだってのにもう忘れちまったのかよ」 「言ってやるな、耄碌してんだよ、なんせポンコツだからな」  徐々に視界が鮮明になる。  部隊長が腰からすらりと軍刀を抜いた。 「答えぬというのであれば、それも構わん。歯向かう者は全て排除するのみ。まとめて捕えろ!」 「「はっ!」」  部隊長の両脇に控えていた兵士二人と、先刻一撃を防いだ兵士二人――併せて四人が路地の中に再び突入し、青年らと男に襲い掛かる。  ギン、と金属同士がぶつかる。打ち合う鋭い音が、いくつも反響する。  踊るように刀を振るう青年らの歳はどちらも二十代半ばといった風貌だ。方や、端正な顔立ち、鋭利に敵を刺す黄金の双眸が美しく印象的である。重さなど感じていないかのように、軽々と愛刀を操り、その太刀筋は素早く、相対する兵士は翻弄されるばかりだ。  方や、小洒落た丸眼鏡を掛け、ひょろりと細身ながら長身の目立つ容姿。武器で守り、敵が隙を作れば、容赦なく長い体躯を駆使した体術も飛んでくる。  数十秒とかからず、先行した二人の兵士が地に伏せる。圧倒的な実力差だ。  次いで残った二人が瞬時に攻勢に掛かる。こちらは多少なりとも先程よりは骨があるようで、そう簡単に大将の元へは通してくれそうにない。  急所を狙って振り込まれる一手一手を受け流しながら、丸眼鏡の青年は、先刻から背後で棒立ちになっている男に向かって声を張り上げた。 「何ぼけっとしてんだ、働け、半人前!」 「は、はあ!?誰が半人前だ!」 「怖くて刀も抜けなかったんじゃあないのか?」 「なわけねーだろ!今やろうと思ってたんだよ!」 「あっそう!」  競り合っていた刀身を弾く。隙をつかれまいと後退して立て直す兵士に、丸眼鏡の青年は果敢に向かっていく。  男は地を蹴った。  まだ道は繋がっている。まだやれる。 「太宰、抜刀!」  その掛け声に呼応して、男の腰元に細かい光の粒子が集い、徐々に紅い鞘の刀が形成される。  男は刀身を引き抜くと、打ち合いの真っ只中である背中へ向かって、腕を振り上げた。 「退け、志賀直也!」 「おっと」  喚声に気づいた金目の青年が、ひらりと身を翻し、頭上の刃が振り下ろされる直前にその場を退く。  男の渾身の一撃は、それでも辛うじて受け止められてしまうが、兵士は地に膝を付き、軍刀には一筋の亀裂が走っている。  金目の青年は、やれやれと溜め息をついた。 「おいおい、今の俺のこと狙っただろ」 「うるせえ!」 「志賀さん!」  丸眼鏡の青年から催促が飛ぶ。 「はいはいっと!」  金目の青年は、路地の入口から傍観を決め込んでいた部隊長へと突進する。  部隊長はいざと軍刀を構えた。  激突と同時にギン、と重い金属音が空気を裂く。青年の縦の一撃を、部隊長は横の防御で受け止め、刃同士が十字に重なり、カチカチと音を鳴らしながらの押し問答。青年は目一杯刀身に体重を乗せ、足を踏み込み、そのまま相手を潰さんとする。部隊長は圧力に顔を顰めながらも、肩口に触れる一歩手前、斜めに刀身を滑らせると、前のめりになっていた青年がつんのめる。その流れのままに首を狙うが、青年は驚異的な反射で身を屈める。崩れた体勢で受け身を取り、即座に背後を強襲。しかし、振り返る勢いで薙ぎ払われる。  一進一退、どちらも譲らない。言うまでもなく、譲れば待つのは死のみだ。だが、地力の差、経験の差とは、拮抗する攻防の中でこそ露わになるもの。  積み重なる乱打の中、青年が放つ重い打撃に、部隊長の足元が揺らいだ。ここぞと獣の眼で隙を見抜いた青年の蹴りが、部隊長の腹部にめり込む。 「がッ……!」  衝撃で吹き飛んだ部隊長は背部を地面に強打する。緩んだ手から滑り落ちた軍刀は、最早届かぬところに転がっている。  横たわって力の入らなくなった体をぶるぶると震わせているだけの無防備な姿。青年はその体を跨ぎ、真上から胸部に容赦なく刀を突き刺した。 「ぐぁっ」  部隊長の顔面が苦痛に歪む。  青年は眉一つ動かさず、じっとその姿を見つめて言う。 「痛みなんてねえ癖に、痛いみてえな顔しやがって」  部隊長はぎろりと青年を睨めつけた。 「こんなことをして、ただで済むと思うな」 「はいはい、設定通りのセリフありがとさん」  背後からわいのわいのと騒ぐ声が聞こえる。どうやら路地の中の戦いも一段落がついたようだ。 「助けてほしいなんて誰が言ったよ」 「ちびりそうな顔してたじゃ~ん」 「してねーわ節穴!」  男と丸眼鏡の青年が慣れた言い合いをしながら歩いてくる。 「おう、そっちも終わったみたいだな」 「貴様ら、一体何者なのだ……」  絞り出すように、部隊長が口を開いた。  青年が呆れたように息をつく。 「こないだもおんなじやり取りしなかったっけ。ほれほれ、よく見なさいよ」  青年は屈んでずいと部隊長の視界一杯に顔を近づけてみせる。部隊長はそれを五秒凝視して、思い出したように納得のいったように、フ、と全身の力を抜いた。とはいえ、諦めの姿勢を取りつつも、表情は実に苦々しく屈辱に塗れている。 「そうか、データにあった、貴様ら、文豪倶楽部だな」 「はい、正解。今度はちゃんと憶えておくんだぜ」  肢体と地面とを縫い付けていた刀を引き抜き、青年は間髪入れずに自身を睨みつける両眼を切り裂いた。  大光和帝国歴一〇五年。この国では厳しい表現・発言規制が敷かれている。本や新聞などに検閲が掛かることは勿論、街中には帝国警察部直属特務公安軍、通称特公の監視の目が光り、国民達は日々を怯えて暮らしている。  かつては当たり前に存在していた筈の数多が奪われた殺伐たる世界で、しかし、彼らは抗っていた。火の消えた蝋を再び燃やす為、幕が下りたままの舞台に光を灯す為、人々の心に希望を、情熱を、自由を取り戻す為に。  彼らの名は、文豪倶楽部。  絶対なる力に反旗を翻す者達である。
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