第三幕 忘れ物は何処に

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 五月晴れの穏やかな空気に街は満たされている。  倶楽部本館の裏手に位置する道場からは、竹刀を打ち合う乾いた音が鳴り響いている。 「遅い遅い!」  鋭い一撃に弾かれた竹刀が由季夫の手を離れ、背後へ落下する。それに気を取られていると、「余所見!」と側頭部を狙った回し蹴りが飛んできて、間一髪腕で防御するも、衝撃に態勢を崩され床に転倒した。 「はい、一本」  頸部にずい、と竹刀の丸い切っ先を押し付けられ、決した勝敗に由季夫は嘆息する。 「今日も俺の勝ちだね、由季夫君」  引っ込めた竹刀を床に立て、堀は転がったままでいる由季夫に手を伸ばす。  由季夫が悔しげに唇を引き結びながらそれを取ると、ぐいと引っ張られるので、身を任せて立ち上がった。 「堀さんは手加減てものを知らないんですか」  鈍痛の滲む腕を摩って、由季夫が恨めしげに言うと、対する堀は、悪びれる様子もなく、けらけら笑っている。 「俺相手に手加減なんて言っているようじゃ、この先苦労するよ」 「こちとらまだ初心者ですってば」  倶楽部へ入会して一週間、由季夫はそのほとんどを稽古ばかりして過ごした。相手が居ない時分は、一人で素振りや体力作りを行うが、道場には誰かしらが出入りしていることが多く、専ら出くわした人物、または頻繁に様子を見に来る指導係の堀を捕まえて相手をさせていた。  確かにA因子を摂取する以前と比べると、身体能力は格段に上がったように思える。それでも、未だ稽古は全て黒星だ。  堀は自身の実力を中の下であると宣っているが、俄には信じ難い。由季夫は精一杯食らいついているというのに、堀には未だ余裕が見て取れる。これで中の下などと言うのならば、果たして彼より上位に位置する連中は如何様であると言うのか。 「堀さん、午後は仕事あるんですか?」  引き戸や窓を全開にしていても、動けば浮かぶ汗を拭って由季夫がそう尋ねると、堀は「あるよ〜」と薬缶から水を注いだ湯呑みに口をつけながら言った。 「革新派界隈の重鎮さんの警護。夏目先生と竜先生、それと直先生も一緒だよ」 「一門総出じゃないですか」 「何でも夏目先生のお知り合いだそうで、直々にご指名があったんだって」 「それなら夏目先生だけでいいんじゃ」 「弟子も連れてこいってさ。ちょっと厄介な人らしいよ、男色の気があるって話だし」 「ああ……」  それで、と由季夫は納得した。  夏目の知り合いと言うのであれば、高確率でその弟子自慢を耳にしているはずで、更にそういった趣向の持ち主となれば、一度目にしておきたいとなるのは至極当然のような気がする。それ程までに夏目の弟子自慢は苛烈だ。 「面倒くさいなあ、正装して行かなきゃならないし」  堀は溜息をつく。 「そういう仕事もあるんですね」  由季夫はてっきり特公と戦うことばかりが倶楽部の仕事だと思っていたのだが、情報収集や有力者とのパイプ作りにも積極的に取り組んでいる様子で、顔の広い森や佐藤が主にこれらの任務に当たっている。 「貸しを作っておくと便利な事もあるからね。でも今回は特別だよ。俺や直先生は兎も角として、竜先生は普段対人系の仕事には絶対入らないから」 「まあ、向いてなさそうですもんね」 「夏目先生の立場があるから、嫌々って感じ。嗚呼、おいたわしや、竜先生」 「それは、お気の毒に」  芥川贔屓の通常運転に淡々と返せば、「由季夫君冷たいー」と堀がどすどす背中を叩いてくる。  そうは言われても、由季夫は初日の件以来、若干芥川に苦手意識を持ってしまっているので、どうしても関連の話題となると感情が消えてしまう。志賀の弟弟子で、堀の師匠であるという関係上、親しくしておいて損は無いと思いはすれど、胸中複雑だ。  その時、入口の戸の方から「失礼」と声がした。 「由季夫君は居るかな」  戸に手を添え佇んでいるのは堀口である。由季夫は「はい」と返事をして、すぐさま駆け寄った。  まるで犬の耳と尾が見えるようだと、堀は内心で苦笑する。  由季夫がこの一週間でこれ程までに懐いたのは、志賀と堀を除けば堀口くらいのものであった。 「稽古頑張っているところ、済まないね」 「いえ、何か御用ですか?」 「森先生に君を呼んでくるように頼まれたんだ」 「森先生に?」 「俺も医務室に呼ばれているから、一緒に行こう」 「わかりました」  元来た道を引き返すなり、堀が「大岳さん、何だって?」と問いかけてくるので、由季夫は「森先生が呼んでいるって」と返答した。  手拭いを首に掛け、竹刀を拾う。湯呑みと薬缶の乗った盆に手を伸ばした所で、堀が「ああ」と声を上げた。 「いいよ、俺が片付けとく」 「え、でも」  付き合って貰っている立場で、それは気が引けると逡巡している間に、横から伸びた堀の手がひょいと盆をさらった。 「任務までまだ時間あるから。森先生をお待たせするのも悪いでしょ」 「じゃあ、お願いします」 「うん」  由季夫は、頷く堀に後を任せ、竹刀を籠に戻してから、堀口と合流した。 「お待たせしました」 「構わないよ」と堀口は笑う。  二人は並んで道場を抜けた。  目的地である医務室へ向かう道すがら、堀口が他愛ない会話を振ってくる。 「竜雄君とは上手くいっているようだね」 「お陰様で」 「もう一通りの事は教わったかい?」  由季夫は「はい」と言って頷いた。  一通りの事というのは、今後倶楽部員として活動して行く為に、頭に入れておかなければならない三つの要点である。  一つは、最重要とも言える〈特公〉について。正式名称を帝国警察部直属特務公安軍とし、その名の通り、政府の警察組織の一端である。本部を烏都に置き、東都東京・名古屋・金沢、西都大阪・神戸・広島・松山、南都博多・熊本、北都札幌・釧路・秋田・仙台の十三箇所に支部を設置している。通常の警察が一般的な犯罪を取り締まるのに対し、特公は反政府主義者のみがその対象となる。原則即時捕縛、抵抗の意志が見られる場合は斬り捨ても已む無し。  特に抗争の激化が著しい烏都には、優秀な人員が配備されている。それ故に検挙率も上向きの一途を辿っている――というのが、表向きの設定らしい。しかし、それがただの人にあらずという事実は、文豪倶楽部員のみぞ知る極秘情報だ。  その正体は、絡繰人形である。  姿形は人と差異無く、その動作も滑らかで、傷を負えば血――のようなものも流れる。一般市民からしてみれば、挙動に何ら不可思議なところは見受けられず、生きた人間のそれと変わりない。実に精巧である。  倶楽部が独自に調査を進め、得た情報によれば、本部に属する兵士らは特公軍総督杉本武夫、副総督新見厚、総督補佐深川夢彦を除く全ての人員が、壱式、弐式、参式と性能順にナンバリングされた傀儡であるらしい。  壱式は、一部隊に一人居るか居ないかといった確率だが、何せ戦闘力が高く、言語能力、喜怒哀楽といった単純な感情表現も備わっている、真似事の上手い厄介な奴だ。これと正面を切って単騎で打ち合えるのは、現時点、尾崎、幸田、夏目、志賀、室生、堀口、それから由季夫は未だ顔を合わせていないが、樋口一陽という人物の七名のみだと言う。  弐式は、端的に言えば壱式劣化版。全ての能力に於いて壱式に劣りはするものの、主に巡回部隊を率いている有能個体。プログラムされた言葉を用いての会話は可能だが、感情変化は無に等しい。  参式は、量産型個体だ。壱式、弐式に付いて回り、部隊の大部分はこのナンバーで補われている。言語や感情を持たず、ただ命令に従い動くマリオネット。戦闘力は低いが、数が揃うとそれなりに面倒でもある。  つまり、これらと戦っていくことが、倶楽部の当面の仕事となるわけだが、何せ相手は人外、生身の人間のように柔には出来ていない。  そこで二つ目は、武器についてだ。  銃はおまけのようなもので、通用するのは参式のみになる為、携帯するか否かは各個人の判断に委ねられている。  メインで使用するのは“魂魄刀”。要するに“魂を具現化した刀”だ。故に、折れれば死に至る両刃の剣。しかし、魂が強固であればある程、刀身は固く、そして美しい形を成す。「抜刀」の意思表示と共に顕現可能で、鞘に納刀する事でその存在は霧散する。専用のホルダーで固定すれば、戦闘中にいちいち消したり出したりせずとも維持可能だが、銃刀法で得物の所持が禁じられている昨今、基本的に持ち運びの必要が無く、使い方を誤りさえしなければ、実に強力な代物だ。  そして最後の一つが、セーフハウスについて。  これは倶楽部と協力関係にある他の団体や個人が提供してくれている物で、空き家であったり、ビルの屋上であったり、一角のバーであったりと、様々な形で各地に点在している。それらを野外活動の拠点として、偵察任務や、逃走時の潜伏場所に使用している。  堀曰く、新人の初任務は、その成長度合いを見て、BIG4がおよそ半月から一か月の間に割り振るとの事なので、それまでにセーフハウスの在り処を全て頭に叩き込むべし、と由季夫は念を押された。因みに全八十六箇所ある。  記憶力には多少の自負があるものの、流石に街全体の地図と特定の場所とを結び付けて頭にインプットするのは一苦労で、絶賛奮闘中の旨を伝えると、堀口は軽やかに笑った。 「そうだよねえ、俺も新人の頃苦労した覚えがあるけど、今はあの頃の二倍位数が増えているから、由季夫君は大変だ」 「大変です」  しかも、特公に特定される、協力者が増えるなどして、場所の増減がままあると言うのだから余計に気が滅入る。実際、つい先日、地図上でM13と区画されている地域のセーフハウスが破棄されたそうだ。由季夫には良く覚えがある、あの小綺麗な空き家。 「まあ、慣れない内は単独任務を振られることも無いだろうし、皆助けてくれるから、ゆっくりで大丈夫だよ」 「はい」  穏やかに微笑む堀口の顔を覗き、由季夫はほんのり頬を染めて、返事をした。  柔和で気配りが上手く、目元の涼やかな美青年である堀口。容姿だけが取り柄のような輩がごろごろしている中、外も内も正に由季夫の美人像を再現しているかの如く完璧な姿。ついつい頬が緩んでしまう。  是非とも親しくなりたい、と由季夫は密かな下心を抱いている。  そうこうしているうちに、目的の医務室へと辿り着く。  堀口がノックをしてからノブを回し、扉を開く。ベッド脇で診察をしていた森が気付いて、カーテンを引きながら「いらっしゃい」と言った。 「まだ人が揃っていなくてね、少し待っていて貰えるかな」  どうやら由季夫と堀口以外にも、どちら様だかが呼び出しをくらっているらしい。 「由季夫君は座っていなさい」と堀口が言うので、由季夫は部屋の中央に置いてある机の下から丸椅子を引っ張り出して、腰を下ろす。  堀口は、棚にカルテをしまい込んでいる森の傍へついついと寄って行った。 「安悟君、また頭痛ですか?」  カーテンの向こうに横たわっているのは、坂口である。 「朝から酷いみたいでね。今鎮痛薬を打ってあげたところだから、暫くすれば落ち着くと思うが」 「こればかりはどうしようもないですものね。可哀想に」  堀口は森の隣を離れ、件のカーテンを捲ってその向こうに姿を消した。  一部始終に聞き耳を立てていた由季夫が「あの……」と口を開く。 「坂口さんの頭痛って、もしかしてA因子の」  森は、使用済みの注射器を消毒液に浸け込みながら「ご明察」と言った。 「寝込む程酷いものはそう頻発するわけではないがね。今日は宜しくないらしい」 「そうなんですね……」  由季夫は、いつだか小林が口にしていた“自分達は恵まれている”という言葉の意味が、この時漸く理解出来たような気がした。  それから程なくして、コンコンと扉を打つ音と共におもむろに顔を覗かせたのは与謝野であった。 「失礼します……」 「やあ、秋子君」 「おはようございます、森先生。もう皆さん集まってらっしゃいます?」  おずおずと部屋の中へ足を踏み入れる与謝野は、何故か決まりが悪そうだ。 「寝坊かね?」  森が看破すると、与謝野は耳まで真っ赤に染まった。 「き、昨日夜遅くまで原稿をしていて、堀口先生に起こされて漸く……私ったら……!」  両手で顔を覆い、羞恥に身悶える与謝野。自室の机で寝落ちていたところを、森の使いで声をかけて回っていた堀口に揺り起こされたらしい。 「ハハハ、珍しい事もあるものだネ。どれ」  森が愉快げに笑いながら、薬品棚の引き出しから櫛を持ち出して、与謝野へ手招きをして見せる。  与謝野は困ったように笑むと、そそくさと森の傍へ寄った。  寝起きで散らばった髪を優しく撫でられ、与謝野は気恥しそうに瞼を伏せている。しかし、その口元はどこか嬉しげだ。  由季夫はそれをじっと眺めていた。  流石に年の功というか、森は女性の扱いに長けていて、少し羨ましく思う。少女の髪を梳くなど、由季夫にはとてもとても出来そうにない。 「森先生」  カーテンの中へ入っていた堀口が、そろそろと戻って来た。 「安悟君、漸く眠れたようですよ」 「それは良かった」  森はふわりと整った髪から櫛を離し、それを元の引き出しの中へ仕舞う。それから由季夫らの方へ向き直り、「さて、では」と切り出した。 「揃った所で本題へ移ろう。君らに頼みたい仕事があってね」 「任務ですか!」  与謝野が瞳を輝かせて息巻く。それに対し、森は「いやいや」と首を振った。 「そんな大袈裟なものじゃあない。ちょっとしたお使いのようなものだよ」  そう言って森は腕を組み、鼻下の髭を指で摘んだ。 「つい今朝方、任務に出ていた一陽君が病院に担ぎ込まれたと知らせが入ってね」  与謝野が息を飲んで両手で口元を押さえ、堀口は眉を顰める。  樋口といえば、倶楽部内でも屈指の戦闘力を有する武闘派である。 「幸い命に別状は無いらしいが、彼女がそれ程までの怪我を負うなど、只事じゃあない。というわけで、君らには一陽君の元へ赴き、詳しい話を聞いて来て貰いたいのだよ。ついでに足りない薬剤の調達も頼みたい」  森は白衣の胸ポケットから薬品名の並んだメモを取り出して、堀口に手渡した。 「二人の引率頼んだよ、堀口君」  その言い草に、与謝野が頬を膨らませる。 「もう、森先生!子供扱いしないで下さいってば!」  それには、由季夫も激しく同意したい心情であった。
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