第一幕 自由への反逆

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第一幕 自由への反逆

 例えば彼がもう少し華やかな見て呉れであれば、女学生の一人や二人を引っかけて遊ぶことも出来ただろうが。  例えば彼がもう少し運動能力に長けていれば、流行りの庭球や蹴球で女学生から黄色い歓声を浴びることも出来ただろうが。  現実はそうもいかない。現実とは常に不平等なものだ。持てる者は金やら運やら才能やら、初めから全てを持って生まれてくる。持たざる者は然り。  ただ彼は、自分が持てる者かと問われれば否と答え、持たざる者かと問われればこれもまた否と答える。勉学、運動、容姿、家柄、全てにおいて中の中、真ん中も真ん中。それを世間では平凡という。  だから彼はこうしている。大層な趣味も取り柄も無いなりに、退屈な平凡からの脱却を夢見、孤高の狼を貫いて、他人とは異なる自身のみの価値を見出そうと。  大きく開かれた窓から風が吹き込み、天井から吊られたカーテンが涼やかに揺れる。傾いた陽が射し、そこら中が橙に染まる図書室。所狭しと並べられた本棚には溢れんばかりの蔵書。窓際には数台の机が置かれ、読書や自習に耽る生徒が見られる。ただ今日に限っては、伽藍堂としていた。  殺人事件があった。詳細は公表されていないが、殺されたのはどうやら軍の兵士らしい。犯人は未だ捕まっていない。  故に、生徒の安全の為と、放課後の居残りは極力控えるようにお達しが出た。用事の無い者は寄り道せずに真っ直ぐ家に帰りなさい、と。ただ、それを守る生徒がどれだけいるかと問われれば、相手は遊びたい盛りの学生だ、半数にも満たないであろう。  現に少年は居残っている。誰も居ない図書室を独占している。  少年の名は平岡君武。烏都第一高等学校二年一組出席番号十五番。生まれつき縮れた黒髪にウェリントンの眼鏡を掛けた、クラスでも冴えないと評判の少年である。  君武は机に肘を付き、手元に開かれた本のページをゆっくりとめくる。  彼は読書家だ。家でも学校でも、暇さえあれば本を読んでいる。それは小学生の頃から続く趣味であり、そのせいか、歳を重ねるにつれ、視力もみるみる落ちている。夢中になり過ぎるのだ。朝読み始め、文字が見え辛いと気づき顔を上げたら既に日が傾いていた、などという事もしばしば。一度読み出すと周りが一切見えなくなる。そのようであるから、耳元で声を掛けられるか、体を揺すられるかしなければ、人が近づこうが何をしようが全く気付かない。足音を殺してなど以ての外だ。  つまり君武はからきし感知していなかった。人影が背後から迫っている事に。  まずい。これは非常にまずい。何がまずいか端的にいうと、彼は読んではならない本を読んでいるのだ。入室した時、誰も居なかったのをいい事に、完全に油断をしてしまっているのだ。  人影の手が、本へと伸びる。  君武は気付かない。  一瞬にして本が奪われ、君武は咄嗟に顔を上げた。 「なになに、〈自由への反逆〉?こら、まーたこんな所でこんな本読んで。先生に見つかっても知らないからね」  背後に立っていたのは、快活げなポニーテールの少女、西森吾子であった。彼女は君武の幼馴染である。  君武はほっと胸を撫で下ろすと同時に、悪戯好きの少女に非難の眼差しを向けた。 「吾子……驚かせるなよ」 「わはは、心臓止まった?」 「止まった」 「それは驚かせた甲斐がありました」  思惑が達成され、吾子は満足げな顔で笑う。手に持っていた本を、「ほい」と言って君武に返却した。  君武はそそくさと隣の座席に置いていた鞄を持ち出し、その中に本を片付ける。 「用事はもう終わったのか?」 「うん。待たせちゃってごめんね」 「いいよ」 「帰ろっか、君武」  二人は連れ立って、図書室を後にした。  吾子は明朗快活な上、頭脳明晰である。持ち前のリーダーシップでクラス委員長と生徒会を兼任し、毎日忙しい。本日も例外なく、委員長の仕事で担任に呼び出されていた。  君武がこうして吾子を待つのは、既に日課となってしまっている。二人は帰る家がお隣さんなのだ。  君武の両親は仕事で海外に赴任しており、家族ぐるみで仲の良かった西森家が、今は何やかんやと世話を焼いてくれている。  この生活も二年が経ち、慣れたものだが、両親は一度も帰国していない。たまの手紙が届くだけだ。  寂しくはない。何せじきに十八になる。もう子供ではない、と君武は思っている。
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