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「ちょっと運転手さん、飛ばし過ぎじゃない?」
乗客の一人である白髪の老夫婦の妻が、運転席の後ろから声を掛け、添乗員のおばさんが代わりに答えた。
「勤続20年のベテランさんですから、大丈夫ですよ」
そんなやり取りが、前方から聞こえてきた。
「うえええ~ん」
バスがカーブを曲がる度に乗客から悲鳴が上がり、それに反応してフユオの子が泣きだした。
嫁がしきりにあやしているが、泣きやむ気配はない。
しびれをきらしたフユオが子供の腕を叩き、「うるせえ、泣きやめ!」と言って余計に子供が泣いて、周りの乗客らが眉をひそめる。
子供が泣く、フユオが叩く、また泣く、嫁がキレる、子供が泣きやまない、またフユオが叩く。
その光景を見ているうちに、おれは自分が小学生のころからフユオに殴られていた頃の記憶が、ひとつ、またひとつ思いだされて、パニックになっていった。
「……やめろ……やめろよ……」
最初は小声だったおれの声が、徐々に抑制がきかなくなり、周りに聞こえるぐらいの音量になっていった。
「やめろ……やめろ……やめろおッ!」
おれは衝動的に席を立ち、フユオの腕に掴みかかった。
「あ?誰だおめえ!」とキレたフユオが「おや?」という顔に変わった。
「神田じゃねえか。何でこんなところに……」
「糞が~~ッ!」
腹の底に溜めこんできたフユオへの怒りが大爆発し、おれはフユオのでかい鼻にガブリと噛みついていた。
「ギャアッ!」
口の中に血の味が広がり、肉が口の中で潰れる感覚が前歯から伝わってきた。
おれは左耳を思い切り殴られ、通路に倒れ込んだ。鼓膜が破れたのか、左耳から音が聞こえない。
次の瞬間、騒然とする車内に、全員の悲鳴が響いた。
バスが真横にぐわりと傾いたのだ。
ガードレールが吹き飛ぶ様子が窓から見えた。
誰のものとも知れぬ絶叫が、ゆっくりと横回転しながら落下する車内に渦巻く。
外の景色が、薄曇りの空から、せり立つ崖、そして黒々とした海へと変化する。
そしておれは…………。
「……死んだのか。乗客の生き残りは?」
「教えない」
「おれはどうなる?」
「どうもならない。この牢獄があなたの居場所」
「牢獄……」
死後の世界などなく、死んだら楽になると、ずっと信じてた。ここは楽園に見えるが、魂の牢獄なのだろうか。
後悔する時間だけは、充分にありそうだった。
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