2018年 盛夏

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「ちょっと運転手さん、飛ばし過ぎじゃない?」  乗客の一人である白髪の老夫婦の妻が、運転席の後ろから声を掛け、添乗員のおばさんが代わりに答えた。 「勤続20年のベテランさんですから、大丈夫ですよ」  そんなやり取りが、前方から聞こえてきた。 「うえええ~ん」  バスがカーブを曲がる度に乗客から悲鳴が上がり、それに反応してフユオの子が泣きだした。  嫁がしきりにあやしているが、泣きやむ気配はない。  しびれをきらしたフユオが子供の腕を叩き、「うるせえ、泣きやめ!」と言って余計に子供が泣いて、周りの乗客らが眉をひそめる。  子供が泣く、フユオが叩く、また泣く、嫁がキレる、子供が泣きやまない、またフユオが叩く。  その光景を見ているうちに、おれは自分が小学生のころからフユオに殴られていた頃の記憶が、ひとつ、またひとつ思いだされて、パニックになっていった。 「……やめろ……やめろよ……」  最初は小声だったおれの声が、徐々に抑制がきかなくなり、周りに聞こえるぐらいの音量になっていった。 「やめろ……やめろ……やめろおッ!」  おれは衝動的に席を立ち、フユオの腕に掴みかかった。  「あ?誰だおめえ!」とキレたフユオが「おや?」という顔に変わった。 「神田じゃねえか。何でこんなところに……」 「糞が~~ッ!」  腹の底に溜めこんできたフユオへの怒りが大爆発し、おれはフユオのでかい鼻にガブリと噛みついていた。 「ギャアッ!」  口の中に血の味が広がり、肉が口の中で潰れる感覚が前歯から伝わってきた。  おれは左耳を思い切り殴られ、通路に倒れ込んだ。鼓膜が破れたのか、左耳から音が聞こえない。  次の瞬間、騒然とする車内に、全員の悲鳴が響いた。  バスが真横にぐわりと傾いたのだ。  ガードレールが吹き飛ぶ様子が窓から見えた。  誰のものとも知れぬ絶叫が、ゆっくりと横回転しながら落下する車内に渦巻く。  外の景色が、薄曇りの空から、せり立つ崖、そして黒々とした海へと変化する。  そしておれは…………。 「……死んだのか。乗客の生き残りは?」 「教えない」 「おれはどうなる?」 「どうもならない。この牢獄があなたの居場所」 「牢獄……」  死後の世界などなく、死んだら楽になると、ずっと信じてた。ここは楽園に見えるが、魂の牢獄なのだろうか。  後悔する時間だけは、充分にありそうだった。
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