第1話 残党狩りの朝

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 「馬蹄のワカメ亭?」  ギーに背中を押されて、ちょいと歩いた先の店先に掛かっている看板の怪しさよ。  「なんのお店なの?ここ」  僕お腹が減ってるんだけどな。  名前にワカメって入ってるけど、とても食べ物を扱うお店じゃあなさそうだし。  …まさか、ギーの行きつけのいかがわしいお店なんじゃ…  「顔に出てる」  ギーは素早く僕のほっぺたに手を伸ばした。  「いひゃいっ!」  避ける間もなくほっぺたをつまみ上げられてしまった。  ギーはよく伸びるなあ、なんて云いながらぴんっとほっぺたの肉を弾きながら手を離した。  地味に痛い。  涙目になりながら抗議の視線を向けてみるけれど、ギーは涼しい顔をしている。どこ吹く風と云う体だ。  むう、腹ただしい。  タレ目の癖に、ツラの皮まで厚いとは。  「今…」  「なにも!」  云ってない!  またほっぺたをつままれては堪らない。  僕は両手で頬を挟んでギーの云うことを遮った。   何か云う前から心を読まないでもらいたい。  読ませちゃう僕のポーカーフェイスにも問題があるんだろうけど。ギーってば、鋭すぎるんだよ。  ギーはまだ何か云いた気な顔をしているけれど、  「ここは食堂だよ」  と、顎をしゃくった。  「あ、本当だ」   よく視ると、ミミズがのたくったみたいに汚い字の下に、交差させたナイフとフォークが描いてある。歪んでひしゃげたみたいな絵だったから、わからなかった。  「変わった名前だね。絵も、斬新だし」  「看板は店主の手描きだ。店の名前は先々代の店主が森で遭難しかけていたところを突然現れたワカメを咥えた馬に助けられて改名したそうだ」  「なにそれどういうこと」  どこから突っ込めばいいの。  「前の名前はヒメハルの鼾亭だったらしいぞ」  「うん、わかった」  深く考えないことにしよう。  世の中のすべての人とわかり合えるなんて、思い上がっちゃいないんだ。  僕はきりりとギーを見上げて、早く中に入ろうと促した。お腹空いた。  ギーはさっさと扉を開けた。  カランコロンと優しいベルの音がした。  扉にベルがついているんだ。  どうでもいいけど、このベルちょっと大き過ぎやしないか。  そう云うと、これはカウベルだとギーが教えてくれた。本来は牛の首につけるものらしい。 もうなにがなんだか。    店は簡素な造りだった。  日がよく入るせいか、雰囲気も明るくて名前程怪しい店には視えない。普通の食堂だ。  ちょっとだけ安心した。これなら、間違っても露出の多いドレスを着た女の人が出てくる気配はないもの。  昼時を少し過ぎたせいか、客は殆どいない。  奥のテーブル席にお年寄りが一人と、カウンターの端に一人いるだけだ。  変わった衣装だ。  カウンターにしなだれるように座っているその人は、体に添うような形の生成り色の長衣を着ている。腰の低い位置に差した、細くも太くもない黒い帯の他は、飾りの類も見当たらない。   背中の真ん中に垂らした、薄茶色の髪のみつ編みも平凡だし。カウンターに立て掛けてある金色の背の高い錫杖だけが、ちょっとだけその人に華やぎを添えているみたい。頭に大きな輪がみっつ連なっていて、左右の輪には更に輪っかがいくつかぶら下がっている錫杖は、王宮の神殿では見たことがない。  異国の人なのかな。  近頃は南の方で貿易が盛んになっているから、その関係で来た人が王都まで足をのばしているのかもしれない。  めずらしさに負けてジロジロ視ていたら、カウンターの御仁がこちらを振り返ってしまった。  あれだけ視てたら気づくよね。線みたいに細い目の奥の、優しい茶色の瞳とばっちり視線がぶつかっちゃったよ。  「こんにちは」  カウンターの御仁は、赤い液体をなみなみとさせたグラスを掲げて微笑んだ。  穏やかな声だ。とても昼酒を嗜んでいるとは思えない。  「こんにちは。お邪魔します」  「よう」  ギーのそれは挨拶なの?  初対面の人にそれはあんまり気安過ぎやしないかな?初対面だよね?まさか知り合いなの?  カウンターの御仁は柔らかい表情を崩さずに、店の奥に向かって  「お客さんですよぉ」  と声を掛けてくれた。  カウンターの中の、脂で濁ったカーテンで仕切った向こうから「はあい」と気怠げな女の人の声が返ってきた。  「なあ、あんた、自然派の神官か?」  ギーは気軽な調子でカウンターの御仁に近づいていった。物怖じしない男だな、ギー。  僕はギーの後ろを付いてカウンターに近づいた。  自然派ってなんだろう。  神官って云ってるから、異国の宗教かな。  随分地味だけど、異国では法衣も違うのかな。  お顔ものっぺりとして平たいし。  ううむ…。神官だと云われたら、それらしく視える、かな?…手の中のグラスがなければ。    「おや、よくご存知ですねぇ」  異国の御仁はちょっとだけ驚いたような顔をした。  本当に神官なんだ。  「前に、あれと同じもの持った奴に会ったことがあるんだ」  ギーは金色の錫杖の方に顎をしゃくってみせた。  「へえ、あれですか。あれをねぇ」  しきりにあれが、あれですかぁ、と繰り返す御仁の表情は読めない。目の細い人はポーカーフェイスが上手いのだろうか。羨ましい。     「いらっしゃぁい」  カウンターの奥の仕切りから、黒い髪をひとつにまとめた女の人が顔を出した。若い人だ。兄上と、ギーと同じくらいの年齢だろうか。  彼女は僕たちに目を留めると、気怠げな目を一瞬大きく見開いたけど、すぐにゆったりと微笑んだ。切れ長の黒い瞳が艶っぽい美人だ。  「なあんだ、ギーじゃない」  「よう、エヴァ」  気安い様子でギーと話すエヴァと呼ばれた彼女は、ふん、とひとつ鼻を鳴らすと  「ありがとね、クマさん。教えてくれて」  と、カウンターの御仁に笑いかけた。  クマさんとは、変わった名前だ。  「いえいえ、お安い御用ですよ」  クマさんは笑いながらいつの間にか空にしていたグラスを振って見せた。なかなかお強請りが上手なようだ。エヴァも仕方ないなぁ、なんてわらっている。  「悪かったな、邪魔して」  「ごゆっくり」  「そっちも」  ギーと気安いやり取りをしたクマさんに、僕は目礼だけ送った。  酒場での正しい挨拶の仕方なんて、知らないもの。  クマさんは気がついて、にっこり笑ってくれた。  「適当に座ってて」  だらだらとカウンターから出てきた女給のエヴァに従って、僕とギーは入り口に近い四人掛けに落ち着くことにした。  焦げ茶色のテーブルと椅子は、は古くてがたがたしている。  僕が入り口が視える席に腰を下ろすと、ギーもたいめんにどかりと座った。  がちゃがちゃと音を経てて、腰に下げていた剣を外すと、テーブルに立て掛けた。制服の黒い上着も脱いで、シャツの襟まで緩めている。  ふいー、と息を吐くギーの姿はだらしない。  「お前も楽にしろよ。こんなところでお上品にしてたって、誰も見てないぞ」  それもそうか。  「うん」  僕は素直に頷いて、ギーに倣った。  腰から外した剣をテーブルに立て掛けると、ギーの剣と長さのちがいがよく分かる。  これがリーチの差というやつか。  上着は襟を緩めるだけにして、脱がなかった。詰襟って窮屈だ。僕もほうっと息を吐く。    「今日はいつものお兄さんと一緒じゃないの?」  水を持ってきたエヴァは、ちらりと僕の方をみてからギーに訊いた。 「あいつは今日仕事でさ、抜けられないんだよ。残念だったな」  「なにがよ。別に…」  慌てたような口調でエヴァ嬢はギーをきっと睨みつけた。ギーはにやにや笑っていいからいいからと云っている。秘密の匂いがする。   「まあそういう訳だから、今日はこいつと、な?」  ギーはばんっと僕の背を叩いた。  「ふぅん。あのお兄さんも美形だけど、この子もキレイな顔してるのねぇ。女の子みたい」  僕はにっこり笑ってみせた。  向かいでギーがぶっと吹き出している。  僕はにこにこと笑顔を浮かべたままギーの爪先に狙いを定めて踵を落とした。ううっと呻いたギーをエヴァ嬢がふしぎそうな顔をして見ている。  ふん、ざまあみろ。  長い足をこちらにまで投げ出して座るからこういう目にあうんだ。    どうせ僕は女顔だ。宮廷でもご婦人方には精悍で凛々しい兄君とお人形のように可愛らしい弟君と噂されているのは知っている。この前なんて女王陛下にちょっとドレス着てみない?と持ちかけられてしまったんだ。慎んで辞退させて頂いたが、あのお顔は本気だった。    「こいつはユーリの弟だからな」  痛みからさっさと回復したギーがしたり顔で頷いた。早い。  なんて頑丈な男なのだ。  丈夫で硬いブーツの踵で踏んだのに。  遠慮なんてしないでもっと強く踏んでやれば良かった。僕は心の中で舌打ちした。  ご婦人の前にいるから笑顔はもちろんは絶やさない。できない筈はない。頑張れ僕のポーカーフェイス。    「兄弟揃ってキレイな顔してるのねぇ。公爵様の騎士団って顔が良くないと入れないの?」  どうやら兄はギーと同じく、公爵家の騎士団に所属していることになっているらしい。流石にここで公爵家の嫡男ですとは云えまい。  「俺が抜けてんだよ」  ギーはわざとらしく前髪を掻き上げてみせた。  「ナルシスト。だからフラレんのよ」  「うるせえよ」  振られたのか、ギー。ちっと舌打ちをしているところを見ると、事実なのだろう。エヴァ嬢は歯を剥き出しにして笑った。  「まあゆっくりしていきなよ。定食でいいんでしょ?」  「おう」  「好きなところ座んなよ。すぐ持っ ていくからさ」  「ああ」  エヴァ嬢は奥の仕切りに向かって店長注文、と声を張り上げながらカウンターの中に戻っていった。  
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