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「わあ」
人が、多い。
王宮前の大通りから少し入り込んだところにあるだけなのに、凄く活気がある。
「騒がしいっ」
「元気だろ」
人の声が大きい。怒鳴ってるみたいだ。でも、顔が笑っている。中には歯を剥き出しにして笑っている人もいる。荷馬車が人の間を通っていく。道は整えられていなくて埃っぽい。それなのにテントみたいな小さなお店が道の両側いっぱいに並んで、台にのせた野菜や果物、肉や小物なんかをごちゃごちゃと売っている。
誰も羽飾りのついた帽子なんて被っていない。日傘をさしている人もいないし、それに
「女の人がひとりで歩いてる」
侍女も護衛も連れていない。
「そりゃあな」
「僕、ひとりで外に出たことなんてない」
「公爵様の息子ににひとりでほいほい出歩かれたらたまったもんじゃねぇよ」
勘弁してくれとギーは笑った。
「まあ、庶民の生活には護衛なんて必要ないからな。家に押し入ったって盗れるモンなんかないし、誰かに世話して貰わないとできないような作法も必要ないし」
気楽だよ。
ギーはそういった。
ギーの家は貴族だけど、暮らしは庶民と変わらないといっていたから、こういう暮らしの方が慣れているのだろう。ぼくは、初めて見る庶民の暮らしに肝を抜かれそうな気分だ。ギーが一緒でなければびっくりして通りの入り口から一歩も動けなかったかもしれない。
通りの向こうから、女の子が数人かたまって歩いてくる。友達同士なのだろうか。なんだか雰囲気が似ている。僕と同じ年くらいかもしれない。これが当たり前だと教えられても、つい供も連れずに女の子だけで歩くなんてと思ってしまう。
それもあんなに短いスカートで!
脛が見えるドレスを着ているご婦人なんて、宮廷では見たことがない。子供じゃあるまいし、邸で働いている侍女やメイドだって、きちんと足の先まで隠れるスカートを身に着けている。
女の子たちとすれ違うとつい
「ハレンチだっ」
と呟いてしまった。どうしてギーは平気そうな顔をしていられるんだ。
「純情だなぁ。あれくらい普通だろ」
「ギーもハレンチだ」
「夜街に行くとな、膝が見えるくらい短いスカートはいてる女に会えるんだぞ」
「はしたない!」
そんなのほとんど裸じゃないか!
僕は両手で頬を挟んで悲鳴をあげた。
「裸って!」
ギーは腹を抱えてけたけたと笑った。つくづく失礼な男だ。ひとしきり笑うとギーは指先で目尻を拭った。泣くほど笑ったのか。
「まあ、公爵家の箱入り息子様には刺激が強すぎたか」
「なんだよ、それぇ。ギーは平気なの?」
「俺はな、見慣れてるよ・・・おっと」
「わっ、なにっ?」
突然目元に掌を押し付けられた。べちん、と音がしたから叩きつけられたと云ったほうが正しいかもしれない。目の周りがじんじんする。いい音がしたもの。痛い。
「ギー、なに・・・」
「あら、お兄さんいい男ねぇ、遊んでかなぁい?」
女のひとの声だ。
「そっちの子、お兄さんの弟ぉ?キレイな銀髪ぅ」
「ねえ、寄っていってよぉ。マケテあげるからぁ」
どうも周りにひとが集まって来ているようだ。視えないけれど、声からしてみんな女のひとのようだ。随分だらしのない話し方をしているけれど、声の高さからして大人の女性だろう。なんだろう、鼻がむずむずする。この甘い匂いのせいだろうか。
負けるって、なにに負ける気なのだろう。
「悪いな、今日は飯食いに来ただけなんだ」
「ああら、残念」
「また今度な」
「絶対よぉ」
「坊やもまたねぇ」
ぞろぞろと女性たちの気配が離れていく。すっかり気配を感じられなくなってから、やっとギーは目元を開放してくれた。鼻が痛い。
「・・・随分ガラの悪い奴らが増えたな」
ギーは女性たちが歩いていったと思わしき方向を見詰めて、眉間に薄っすら皺を寄せた。
「ガラが悪いって、さっきの女のひとたち?」
「ああ、普段ならこんな時間に表通りで会うことはないんだがなぁ」
いやぁ参った。ギーはばさばさと自分の黒髪をかきあげた。
僕はちらりと辺りを見回した。いかにも庶民という風情の女性たちに混じって、どう見ても化粧の濃い、派手だけど仕立ての悪いドレスを身に着けている女性たちがいた。あれは、娼婦、なのだろうか。
「・・・ギー、娼館にも行ったことがあるの?」
僕は一歩後ずさった。
「おい
なんで離れるんだよ。行ってない」
「へー・・・」
僕はもう一歩後ろに足を出した。別に、軽蔑とかしているわけではない。汚れた大人から身を守っているだけだ。
「いや、絶対誤解してるだろ」
だって、あしらい方が慣れていたから、ね?
「ギーってモテるんだね」
「だから行ってない」
「いや、大丈夫。偏見はないから」
「そう言ってる時点でもう偏見がありそうだ」
「ギーは垂れ目だけど、口元のホクロがアダっぽくて素敵って、うちの侍女たちが話してたよ」
アダッてなんのことだかよくわからなかったけれど、きっと良からぬことに違いない。
「ギーは大人なんだね」
「絶対間違ってる」
「病気には気をつけてね」
「そういうことは知ってるのか」
「僕だって男のこだし」
ねえ?
ギーはムキになって、俺は病気は持っていないとか、玄人の手管より素人の初心さがイイとかぶつぶつと言い訳をはじめた。玄人の手管を知っているんだね、ギー。僕はそっと心の距離を広げた。たった数分で、ギーをこんなにも遠く感じるようになるなんて、思わなかった。人ってわからないものだ。
「だから俺は最終的に大切なのは体の相性よりも人としての…」
話が大きくなってきた。このまま放っておくと聞かなくても良い大人の事情まで聞くことになりそうだ。ふざけるのはこのくらいにしておこう。僕はまだ、清らかな自分に満足している。
それにしても
「本物の娼婦って初めて視た」
「視せたくなかった」
ギーは眉間に皺を寄せて渋い顔をした。
「思ったより地味なんだね。あれなら神官の方がよっぽど派手だもの」
僕はくしゃみして鼻の先をこすった。おしろいの匂いは娼婦の方がキツイや。安いのかな。
「そりゃあ貴族神官と同じって訳にはいかないだろ」
「あんなところで春をひさいでいたら、神殿にみつかるんじゃないの?」
女神信仰が盛んな我が国で売春は違法だ。そもそも体を売る、人身を売る、と云う行為自体認められていない。もちろん奴隷を持つことも、売ることも禁止されている。
「見つかったら売りても買い手も感化院に放り込まれて鞭を打たれるのに、大丈夫かな」
「大丈夫だろ。貴族も神官もこんなところ来ないだろうし」
「僕とギーは貴族だけどね」
ギーの云う通り、神殿に所属する人間は選民意識が高いからなぁ。貴族も多いし。こんな下町には来ないか。あらぬ噂を立てられたら厄介だし。
「今更だろ」
「それもそうだね」
「それに」
ギーはぎゅっと目尻の垂れた目を細めて真剣な顔をした。
「お前とユーリだけはなにがあっても俺が守る」
「…噂の火消しはギーの手に余ると思うよ」
「その辺は任せる」
「いきなり投げたね?」
「俺はお前らが無事なら国も騎士団もどうでもいい」
「大きい声で云っちゃだめっ」
でもありがとう。
僕がにっこり笑ったら、ギーもようやく眉間から皺を消した。今の顔、お酢でも飲んだみたいだったよ。
ギーの云うことは、聞きようによっては不敬だし、陛下を蔑ろにしているみたいだけど、公爵家への忠誠心が厚すぎるだけで他意はない。
正確には公爵家というより、兄への忠誠心かな。
なにしろ五歳で初めて兄と顔を合わせたときに「お前の面倒はオレが一生みてやる」と宣言してからずっと兄に仕えているのだ。まあ、宣言したときはギーの父親である我が家の騎士団団長に「主人に向かってお前とは何ごとだ!」と拳骨で殴られたらしいが。
「そういうお前も同じことを云っていたな」
と、僕の父親が横から冷静にたしなめていたのは内緒だと、乳母のばあやが教えてくれた。似たもの親子なのだ。
ギーの家は古くから代々我が公爵家に仕えてくれているけれど、自分が気に入った人にしか忠誠を誓わないという、面倒な癖を持って生まれて来る者が多いらしい。
気に入った相手にはとことん、それこそ命を賭けて忠誠の限りを尽くすけど、気に入らなければ当主であっても見限る困った一族でもある。
何代か前にはどうしても当主と馬が合わずに、三男坊と流浪の旅に出てしまった者もいるようだ。気ままな気質が伝統の一族なのだ。
幸い現在の我が家とギーの家は、相性が良いらしく、決定的な仲違いをするには至っていない。
忠誠心とか相性とか、僕にはよくわからないけれど、とにかく兄とギーは仲が良い。
あのお堅い兄に冗談を云えるのはギーだけだ。意外と大物なのだ、ギーは。
「お前、今…」
気がつくとギーが半眼になって僕を視ていた。
ギーの大きな手がすっと僕の顔の方に伸びている。
僕ははっとして、反射的に両頬を手で覆って隠した。つねるか?つねる気か?
「お前、失礼なこと考えてるときは本当にすぐわかるな」
心配になってきたと、ギーはぼやいた。
「え」
「脳みそと顔の筋肉が直結してるんだな」
「うん、褒められてないことはわかるよ」
僕は覆っていた両頬をむにむにと摘んだ。ポーカーフェイスってなんだろう。
「そんなことはないぞ、素直なのはいいことだ」
「はいはい」
ギーの云う良いこととは、こどもらしいという意味なのだろう。僕は苦笑いした。
「今日は兄上と一緒にいなくていいの?」
「ああ、まあな」
ギーは僕からは視線を反らして、指の先でちょいと頬をかいた。ギーだって、ポーカーフェイスは苦手じゃないか。大方、兄に僕の面倒を見るように頼まれたのだろう。
「兄上はすごいなあ」
騎士団の仕事をしながら、不肖の弟の世話まで焼くなんて。僕にはとてもできない。
その上一部とはいえ、領地の管理まで任されているのだ。領地でどんな仕事をしてきたのかなんて僕にはわからないけれど、兄はまだ十七歳なのに父の代わりを立派に務めていることはわかる。使用人にも騎士団の人間にも、兄は慕われているのだ。
四年前に大病を患って以来、少し近寄りがたい雰囲気にはなったけれど、それが却って宮廷のご婦人方の人気に拍車をかけたものだ。それまでも口数こそ多くはなかったものの、穏やかで気が優しく、礼儀正しい少年が、病を乗り越えた後に怜悧で少し張り詰めた印象を醸し出すようになったのだ。ご婦人方に、大病を経て大人にお成り遊ばしたと口々に囁かれた挙げ句、氷の貴公子なんてあだ名されてしまった。名誉なのか不名誉なのかわからないあだ名だ。ギーは爆笑していた。
ご婦人方はうっとりとした眼差しを次期公爵である兄に向けている。兄と同じ年頃のお嬢様方なんて、とても情熱的なアプローチをしてみせる。兄は見た目が良いだけではなく、文武にも秀でているし、父に似て人の上に立つ風格も才覚も備えている。誰もが兄に任せておけば家も国も安泰だと口にするくらいだ。
「僕とは大違いだなあ」
思わず眉が垂れてしまう。特に優秀な訳でもない、平凡な弟の僕にとって、兄は憧れの存在だ。
「すごいなあ」
僕にはできないことばかりなのに、兄にはできないことがないのだもの。心から、尊敬している。尊敬しているのに、そんなことを考えている自分は、なんか惨めだ。
「ばぁか。お前とユーリは違うだろうが」
「あのユーリ様の弟君は御家名だけで入団遊ばされたって陰口叩かれていることくらい、僕でも知ってるよ」
「なんだお前、気付いてたのか。すごいなあ」
「感心するところそこなの?」
「どうせあのブタとあのネズミが云ってたんだろ」
ちっとギーは舌打ちした。
「ブタとネズミって」
確かに似てるけど。
ギーの云うその二人は一応ギーよりも家格の高い貴族なのだけど。ギーには関係ないか。そういう性格だった。羨ましい。ギーは怖い顔をして僕の方にずいっと迫った。
「気にするなよエリ。あいつらだって云うほど仕事ができる訳じゃないんだ。自分の欠点が見えない奴ほど、他人のアラ探しは上手いもんだしな。陰でこそこそ悪口だか告げ口だかにうつつ抜かしてる奴らの貧しい品性に、お前が合わせてやる必要はない」
ギーがこんなこと云うなんて、珍しい。
僕はちょっとだけ目をみはった。
「…うん、ありがとう」
「よし、とっと飯食いに行くぞ」
バン、と背中を叩かれて僕はよろけた。
「いたっ!痛いよギーっ」
「はははっ!」
豪快に笑うギーに促されて僕らは賑やかな通りをだらだら歩き出した。
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