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第1話 残党狩りの朝
耳の奥がぐわん、と鳴った。
薄い刃物をしならせたみたいな音だ。
突然目の前で飛び散った真っ赤な飛沫がゆるやかに落ちていく。
なんにも聞こえない。
静かな世界で、僕は瞬きを忘れてしまった。
―血だよね
ぐるん、と白目を剥いて崩れゆく体の向こうには兄がいる。
いつもと同じ、氷のような無表情だ。
後ろでひとつに束ねた銀色の髪が、日の光を浴びてきらきらと輝いている。緑色の目を鋭く尖らせて、まるでなにかを哀れんでいるみたいだ。薄い唇が動いているけど、なんにも聞こえない。
兄の持つ銀色の刃は赤い斑に染まっている。
僕は、今しがた目の前でぐしゃりと崩れ落ちたものを見下ろした。
うつ伏せに倒れたその背は、肩から腰にかけてばっさり斜めに裂けている。
どくどくと赤い血が流れていく。
石畳の上で広がって、血の海に体が沈んでいくようだ。生臭い。命が流れ出ていく臭いだ。
こめかみが痛い。
どくどくと自分の体を流れる血の音が聞こえる。胸が苦しい。体が動かない。
血の海を泳ぐように藻掻く手が、僕の足首に伸びた。とっさに僕は後ずさった。たったそれだけのことで、僕は後ろにひっくり返りそうになった。
兄はさっきと同じ目で僕を視ている。
視ている。
僕は背中にじりじりとした泡立ちを感じて、なにかいおうとしたけど、声が出なかった。
喉がはりついたみたい。
何も喋れない。
目の奥ががんがんと痛む。
瞬きひとつしただけで世界がぐわんと歪んだ気がした。
兄はふっと僕に背を向けてしまった。怜悧な声を響かせて、背後に控えていた騎士に、この死体を片付けるように指示している。
―ああ、声が
聞こえる。
いつの間にか戻っていた音に安心したのか、体から力が抜けていった。
何人かの騎士が腰から下げた剣をがちゃがちゃいわせながら、兄に従ってこちらに駆け寄ってくる。
兄は刃についた赤い斑を振り払うように一閃させて鞘へと収めた。
乾いた灰色の石畳は、落ちてきた雫をあっという間に吸い込んでしまう。赤い染みはすぐに汚い黒い染みにかわった。
僕は通りの脇に積んであった、大きな荷箱の陰からはみ出している汚いボロ布を視て瞼を閉じた。
唇が震えてる。
目を開けたら斬られたものの姿はなくなっていた。
僕は灰色の石畳を馬鹿みたいに視つめていた。
―あれが
亜種なんだ。
***
旧ソサエティの残党狩りは無事に終わった。
本日遭遇した亜種は全部で四体。
内一体は本日市街地巡回の陣頭指揮をとっていた僕の兄が始末した。
残り三体は捕縛した後、手順に従い《杭打ち》に処し、王宮騎士団の詰め所内にある牢に投獄した。
いずれ彼らは大公閣下の治める断首台のある街に送られることになる。
定形通りの報告を終えた後、詰め所内で解散を告げられた。
正規の騎士たちは速やかに各自の業務に移行していく。
「エリ」
後ろから声をかけられて振り返ると、気楽な様子のギーが立っていた。
正規の騎士が身につける濃紺の制服の中で、ひとりだけ黒い制服を着ているから、目立っている。
その上他の人より頭ひとつ飛び出すくらい背が高いから、余計に人目を集めている。本人はまるで気にしていないようだけど。
「お疲れ様、ギー」
「お疲れ様。お前本当に疲れたって顔してるなあ」
大丈夫か?と云ってギーは僕の顔を覗き込んだ。
目尻の下がったギーの、灰色の瞳に写り込んだ僕の顔は、たった数時間で本当にげっそりとやつれていた。
けれど、ギーがあんまりざっくばらんな口調で喋るから、通り掛かった騎士がぎょっとした顔でこちらを見ていった。
僕は思わず笑ってしまった。
貴族ばっかりの王宮騎士の中に、ギーのように話す者はいない。
ギーはの本来の所属は僕の家が所有する騎士団で、ギー自身は所謂下級貴族の出身だ。暮らしぶりは平民と変わらない。
「うん、なんか、いろいろびっくりしちゃって」
「ああ、お前残党狩り初めてだったっけ」
一応僕はギーの仕える公爵家の子息なんだけど、兄と同い年のこの男は、兄の幼馴染みでもあるせいか、僕に対しても諂うような真似はしない。本人の性格の問題かもしれないけれど。
「うん」
「そうかぁ、それじゃあショックだったよな」
うんうんと頷きながらギーは僕の頭をぽんぽんと撫でた。やっぱり性格の問題かもしれない。
仮にも僕は公爵家の息子で、今年から王宮騎士団に見習いとして入団しているのだ。こんな風にこども扱いするなんて、普通なら考えられない。気位の高い貴族にやったら不敬罪だ、なんて騒がれてしまう。いくら僕がギーよりずっと小柄で、四つも年下の十四歳だからといっても、だ。身分社会は厳しいのだ。
「ギー…」
「ん?どうした?死にそうな顔して」
目が死んでるぞ、とギーが失礼なことを云う。
「僕、領地に帰って隠居したい」
「話聞くから」
ギーが真顔になった。
優しさが身に染みるよ。ぐすんと鼻がなる。
不覚にもちょっぴり涙ぐんでしまいそうだ。
なんてじんわり感動していたら、頭の上に乗っかったままだったギーの大きな掌が、兄と同じ僕の銀髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「うわっ、ギーっ!」
「おら、とっとと帰るぞ」
いつまでもシケた面してンなよ。
言外に励まされたのだと気づいて、僕は眉を垂らして頷いた。
男前だな、ギー。
垂れ目だけど。
「お前今失礼なこと考えただろ」
「え」
どうしてわかったんだろう。
ギーは目尻の垂れた目をぎゅうっと細めると、僕の頭をむんずと掴んで前後左右に振り回した。
「ひいっ!」
脳みそが揺れる!
やっぱりギーは不敬だ!
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