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男は怒らなかった。物に当たる様子もない。代わりに自嘲的な笑い声を漏らした。
「確かに、俺も自分が何者だか知らない。俺は自分のことを言ったのかもしれない」
わたしは暗い気持ちだった。サリー先輩が喋る機械のように見えてしまっていた。わたしもこんなふうに喋るようになるのだろうか。それこそ百万回説明するうちに。
「じゃあ、約束通り、質問」
「そうだったな。なにが聞きたい?」
「この一ヶ月、なにしてた?」
「そんなことか」
今度は男の方が話すのを嫌がって、長いため息を吐いた。その後、咳き込む。死のケムリはどこまで彼を満たしたのだろう。
「なんにも」
「最後の一ヶ月なのに、なにも?」
「ああ、ずっと死ぬことを考えていただけだ。家から一歩も出なかった。というか、出られなくした。ドアにも窓にも板を打った。敷金なんかもう惜しくないからな。それで暗闇のなか、ぼーっとしてた」
「それだけじゃないはずだよ」
「それだけさ」
「外のこともわからないくらいなこと、なにかしてたんでしょ?」
「やれやれ、どこまで知ってて、どこから知らないんだか」
男は言葉に詰まったが、続けた。
「音楽を聞いてた。ヘッドフォンつけて、耳が壊れるくらい、聞いてた。学生の頃は、バンドをやってたんだ」
「なるほどね」
「なにか、わかったか?」
「だいたい」
サリー先輩は足先の方をちらりと見た。わたしもつられて、同じところを見た。実は足の指でずっと時間を数えていたらしい。チクタクと印を結んでいる。いつの間にか靴は脱ぎ散らかされていた。
「残念だけど、ダメ犬が死ぬまで、あと三分だ」
「そうか」
男は短く言う。おそらく電話を投げ置いた音。なめらかな床を滑る音。そして立ち上がった、バンッボンッという空っぽの浴槽が響く音。彼はお風呂場にいる。
「サリー先輩、電話置かれたんじゃないですか? 電話切られたら失敗なんじゃ……」
「うん、切られたら失敗。でも切られてはいない」
「アアアアアアアアアアアア?」
男の絶叫は、少し遠くに聞こえる。やはり電話から離れたのだ。こちらの声は届いているのだろうか。わたしと同じように黒電話の魔法が届いているかもしれない。
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