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1136ea7b-5c45-4399-8c76-ad36d21c7dde 「なんで断らなかったの?」 あんなふうに苛立った声を向けられたのは、初めてだった。 目の前にどんより暗く、重そうな雲が広がっている。 そういえば、午後は雨の予報、と誰かが話していた。 今にも降り出しそうなグレーのグラデーションをぼんやり眺めながら、北島美和はそっとため息をついた。 どう考えても、私が悪い。 「北島さん、今日の夜はどうですか?」 朝、メンテナンスを施したノートPCを届けに来たシステム部の山岸洋介に食事に誘われた。 これまでも何度か誘われていた。 今までいろいろ理由をつけてうやむやになるようにしていたのだが、ひと通り言い訳を使い切ってしまいすぐに何も思い浮かばなかったのと、何度も断り続けているのが申し訳ない気持ちになって、 「そうですね」 とどっちともとれるようなあいまいな回答をしてしまった。 山岸はOKの返事ととらえて、 「じゃあ、18時に1階で待ってます」 とにっこり笑って颯爽と去っていった。 会話の様子を聞いていた畑中洋子が、椅子のキャスターをすーっと滑らせて、美和に話しかけに来た。 「ついに付き合っちゃう感じですかー?」 洋子の好奇の目線がうっとうしい。 「そういうんじゃないから」 「えー、でも向こうはそういうつもりですよね。山岸さん、いい人だと思いますよー」 「そんなことより、さっき井上さんから頼まれた一覧表、もうできたの?」 「まだでーす」 美和に今やっている急ぎの仕事の話を向けられ、洋子はしぶしぶ席に戻っていく。 だめだ。ちゃんと断りに行こう。 美和はすぐに立ち上がって部屋を出た。 通路に出たところに、柴田祐太が立っていた。 顔を見た瞬間、今の会話を彼も聞いていたことがわかった。 柴田は無言で美和の手首をつかんで、強い力で会議室にひっぱっていき、扉を閉めた。 「なんで断らなかったの?」 声も目も、厳しかった。 美和は体を硬くして、小さな声で答えた。 「ごめん。断る理由がうまく思いつかなくて。今から断りにいくところ」 「なんで? 最初から彼氏いるって言えばいいのに?」 「うん……」 「美和さん、おれのこと、どうでもいいんでしょ」 「どうでもいいなんて思ってない」 「だったらなんで最初からはっきり言わないの? 他のやつと付き合いたいならそう言いなよ」 柴田はそう言い捨てて、会議室を出ていった。
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