Ⅲ. 志田村 咲希

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早いもので7月も残り1週間を切った。 本格的な夏を迎えた遥町はたまに気温が30℃を越えたり湿度が高くジメッとした暑さの日もあるが、基本的には爽やかな気候で過ごしやすい。 コテージ村やキャンプ場を有するこの町に冬のフェスティバルと同じくらい多くの観光客がやって来る季節でもあり、町中には全国津々浦々のナンバーをつけた車が走っている。 我が彼方の森天文台にもたくさんの旅行者が立ち寄ってくれるので館内は昼夜を通していつもより相当賑やかだ。 僕達研究・技術スタッフも案内スタッフと同様に展示物について説明をするなど来館者と接する機会が多々あるのだが、この時期に来てくれた人達にだけ必ず紹介するオススメの風景がある。 それは天文台屋上の観望ルーフから見渡す遥町方面の眺望だ。 小高い丘の上に立つ天文台と遥町の中心部を結ぶ緩くうねった道の両側は見渡す限り広大な小麦畑になっていて、収穫される月末までは黄金色に色づいた麦の穂がそれこそ金色の絨毯を一面に敷き詰めたかのように輝きとても美しい。 ガイドブックには載っていない7月下旬限定の絶景なのだ。 ちなみに日本一の小麦の生産量を誇る十勝地方には様々な品種が栽培されているが、天文台から見渡せるのは昨年の9月に植えられた秋まき小麦である。 冬の冷たい空気に触れない暖かい雪の下で越冬した小麦は春の追肥を経て出穂、登熟、成熟し現在に至る。 収穫後は乾燥、製粉され強力粉となり、それを相性のよい中力粉などとブレンドすることでパン作りにぴったりな製品になるらしい。 前にその粉で焼いた食パンを結城さんが貰ってきてみんなでご馳走になったのだが、その時、僕はもの凄い衝撃を受けた。 月並みだけどまさに外側はカリッ、中はモチッ。 口に入れると香ばしくてほのかに甘い。 お世辞抜きでそんなにおいしいパンを食べたのは生まれて初めてだった。 その小麦粉も他の農産物も、生産者の皆様のたゆまぬ努力と熱意によって作られている。 札幌にいる時は母が作ってくれた食事をただ漠然と食べていたが、この町に来てからは大地の恵みのありがたさと農作業や牛の世話などに汗を流す人達の思いをとても身近に感じるようになった。 “農業って言うすっげぇ仕事” 僕が天文台の正社員になったあの日、耕作さんは声高らかにそう言っていた。 今ならその言葉の意味がよくわかるし、常にハチャメチャな彼の唯一の名言だと心の底から思う。
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