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松永弥生7
ああ、やっぱりそうだ。
やっぱりあなただったんだ。最後にわたしに会いに来てくれたのは。
名前も知らない、十一歳のわたしの息子。
*****
「や……やよ……い……さん」
「……えっ?……ミヅキなの?」
転がるアイスピックがつま先に当たり部屋の角まで蹴飛ばしてしまった。そのままゆっくりとドアの近くにあるスイッチを押すと部屋がパッと明るくなり思わず目が眩む。身を屈んだまま影の正体は頭を抱えて小さく体操座りをしているミヅキの姿だった。
「ご……ごめ……んな……さい…ごめん……な……い」
ミヅキは泣いて震えている。自分のしたことの重大さをわかっているようだった。一体どういうことなのか、この小さな身体がたった今わたしを殺そうとしたギロチンのような腕だったのか。恐怖が消え去り、うまく力の入らない身体をひっぱるようにわたしはミヅキに駆け寄り、その小さな身体を抱きしめた。
「この家に他に誰かいる?」
震えながらミヅキは首を横に振った。
「一人で来たの?」
今度は首を縦に振った。
「レンタルチルドレンの劇団の人に言われたの?その人にやれって言われたの?」
暴力団の影を感じたが、ミヅキは泣きながら首を横に振った。
「じゃぁ、誰にこんなこと……?」
ミヅキは黙ってしまった。ごめんなさいと呪文のように言い続けている。そして予想は付いている。
「もしかして、お母さんに言われた?」
小玉が言っていた、子供を売り物にしようとするだらしのない母親――。
サイトの凍結からミヅキに対しての支払いも薄くなっていたから苛立った母親がミヅキを使って脅したのかもしれない。
「ご……ごめんなさい」
肩が脈に合わせてジクジクと痛んだ。幸い傷は浅く、寝間着のうえから血が滲んだ程度だった。子供の腕力では当然だろう。状況が把握できるとようやく痛みが湧いてきたのだ。
「ダメ、許さない。こっちへ来なさい」
ミヅキの手を強く引くが、ミヅキは下を向いたまま立ち上がろうとしない。駄々をこねた子供ように泣きじゃくっている。
「ミヅキ、立って!こっちへ来なさい!」
「いやだ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「真人!」
本名を呼ばれて、ビクッとミヅキが弥生を見上げた。すぐに肩に滲んだ血に目が行くとミヅキの顔をみるみる強張って歪んだ目からまたとめどなく涙が溢れ出した。
「ひっ……ごめんなざい……うぅ……ごめんなざいぃ……ひっ……ごめ……い」
寝室から引きずるようにミヅキの腕を引っ張り、一階のリビングへと向かう。
「ちゃんと立って、こっちへ来るの!」
真っ暗なリビングに入るとミヅキがいつも座るソファへと引きずる。ミヅキはそれでも頭を抱えたままソファとテーブルの間で縮こまっている。
部屋に小さな明かりが灯された。ミヅキがゆっくりと顔を上げる。
「え?……何……これ?」
ローソクに火を灯した、苺の乗ったショートケーキがテーブルに運ばれてきた。やさしいローソクの灯火は部屋を暖かくオレンジ色に染めた。ゆらゆらと僅かな風でも光は動く。小さな明かりをたよりに部屋を見渡すとリビングには青、水色、緑といった色の風船や手作りの折り紙で作られた輪っかの飾り付けがされておりソファの向かえにあるテレビには控えめながらハッピーバースデーと書いたボードが立てかけられていた。
「はぁ〜良かった来てくれて。危うくこれが無駄になっちゃうところだった!」
「あっ!……」
掛け時計を見ると、深夜の一時を回っている。日付が変わっていたのだ。
「僕、今日が誕生日だ……」
「そう、六月六日。水無月。わたしが付けたミヅキの名前の由来。わたしの誕生日プレゼントにこれをくれてとても嬉しかったから、日付が変わったらミヅキの本当のお母さんより先にわたしが一番最初にお祝いしようって決めてたんだ」
弥生はミヅキにもらったピンク色のシュシュを見せた。ミヅキは辺りを見渡して寂しそうに言った。
「ママは……僕の誕生日なんか……覚えてない……」
ママ。本当の母親は「お母さん」とは呼ばないのか、と弥生は思う。
「……ママになんて言われたの?」
ゆらゆらと動くローソクの明かりは独特な雰囲気を漂よわせた。優しいオレンジの光はミヅキの心を溶かしていくようだった。そこには劇団で仕込まれたミヅキではなく辻村真人というただの小学生がいた。
「……ママは、母親は二人も必要ないって、もう僕の家にお金がないから……これからはそっちの家でお世話になれって言われた」
片方の母親を消せば、ママが必要としてくれる。とでも思ったのだろうか。ミヅキはそこまで幼稚じゃない。言い方を変えて脅されたのかもしれない。
「僕は、弥生さんにとんでもない事をしちゃった……僕は警察に捕まって牢屋に入れられるの?」
辻村真人は少し我儘に見えた。自分勝手で、浅知恵で子供らしく矛盾していた。でもこれが普通なんだ。これが普通の小学生なんだ。
「残念ながら、牢屋に入るのはママの方だよ。悪いことをしていたレンタルチルドレンの劇団も終わり。警察がみんな逮捕しちゃうんだって」
「僕は!?僕はどうなるの!?」
「ミヅキは子供だから警察には捕まらない。施設に入ることになると思う」
施設と聞いて、ミヅキは肩を落とした。以前に入ったことがあるかのように見えた。ケーキに刺さっているローソクの明かりがミヅキの瞳の中に写り込んで伏し目がちのまつげが伸びていた。
「それっていつまで?」
「ママが、迎えに来るまで」
「迎えに……来るのを忘れちゃったら?」
「母親は、自分の子供のことを忘れたりなんかしないわ」
「でも……もしも僕のことを忘れちゃったら?」
「ずっと待つのよ、心の中で。ずっと」
「だって……だってママは何年も僕の誕生日だって忘れてるもん」
ミヅキはいじけるようにまた涙を浮かべた。突き出た下唇が震えている。
「じゃぁ、誕生日の日はもう一人のお母さんのところへ来ればいいよ」
「えっ……」
「わたしは絶対にミヅキのことを忘れたりしないわ。だってミヅキが、わたしをお母さんにしてくれたんだもの」
「でも僕、弥生さんに何もしてない」
「何かしてもらおうと思って、子供を欲しがる親なんていないよ。ただ会いに来てくれた。わたしのところに来てくれた。それだけで十分幸せなんだよ」
「僕の、お母さんになってくれるの?」
「うん。約束する。毎年この日だけ、わたしはミヅキのお母さんになる」
「本当にホント?」
「ミヅキに渡していた家の鍵、まだ持ってる?」
「うん」
そういうとミヅキは置きっぱなしにしていたランドセルを引きずり出し内側にくくりつけてある鍵を見せた。
「それミヅキにあげる」
「え?」
「わたしもこの家で待ってるから。来年も一緒にケーキ食べよう」
涙を浮かべながらミヅキは頷いた。これからの不安と、母親に対する寂しさと期待。わたしはこの子に何もすることが出来ない。
「ほら、消して」
気づけば弥生の目にも涙が溢れていた。二人で涙をティッシュで拭いながら半分ほどに短くなったロウソクの火をミヅキが吹き消す。
「ミヅキ、十二歳のお誕生日、おめでとう」
フォークをもってホールごとケーキを二人で頬張った。いちごの甘酸っぱい酸味と生クリームの甘ったるさがちょうどいい。真夜中のショートケーキは驚くほど美味しかった。オレンジジュースで乾杯した。それから今までのレンタル期間の話をいっぱいした。ピンク色のシュシュはやっぱり同じクラスの女の子に選んでもらったみたい。不安そうに寂しい顔をするミヅキを何度も何度も抱きしめた。
この子の母親になれる最後の日。
母親は自分の子供を忘れることなんかできない。
どんな事があっても、絶対に。
黒いランドセルを背負った私の息子は夜の七時に我が家にやって来て、朝の七時に帰っていく。
「お母さん、行ってきます」
私はその小さな後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
息子は名残惜しそうに振り返り、何度も大きく手を振る。
その子の満面の笑みにつられて私も笑顔で手を振り返した。
そして待つことにした。息子が帰ってくる日を。
息子の名前はミヅキ。六月六日生まれ。好きな食べ物はカレーライスとラーメン。家族が大好きな小学六年生――――。
「毎年この日――。わたしはあなたをレンタルする」
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