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松永弥生5
ギシィッ……ギシィッ……。
静かになった部屋にゆっくりと階段を踏みしめる音が聞こえた。小玉が勢いよく出ていった部屋のドアは僅かながら隙間が空いている。リビングに人の気配を感じられたが、これだけの物音になんの反応もないのでこの家には自分しか居ないものだと思っていた。
先ほどの暴力団や警察などの話が出たうえに両手足を縛られ身動きが取れない弥生は人の気配にゴクリと唾を飲み込んだ。
ゆっくりとドアが開かれるとそこには小玉の母親が立っていた。
「あっ?あの……」
弥生の顔を見ても表情を変えず、母親は淡々と答えていた。
「洗濯物も取り込んでおきましたから、あとはお願いしますよ」
外は雨、突然の発言に弥生は言葉を失った。水分のなくなった皺々の手にはテレビのリモコンが握りしめられている。
両手足を縛られている自分を見ても表情を変えない。一点を見つめたまま時折動きが止まり、声を掛けるとそれに反応して周りを見渡し何かを探しているようにも見えた。
「お、お母様でいらっしゃいますか……?」
様子がおかしい。母親がゆっくり部屋に入ると、曲がった腰を支えるように本棚や壁に手を付きながら弥生に近寄ってきた。
「あなたもあの子のことが心配なんでしょう?」
「え?」
弥生と目を合わすことなく、手を伸ばすと小玉の机にリモコンを置いた。そのまま散らかった小玉の机の上を片付け始めた、様子だったが、ゆっくり動く手元は右にあるものをどんどん左に重ねていっているという感じだ。本や雑誌、飲んだペットボトルやペン。机にある大抵の物を左へと移していく。
「大丈夫よ、時期に戻ってくるわ」
「……?」
その光景に弥生は怯えるだけだった。
どんどん積み重なる雑誌や本、ペン立ての上に今度は椅子の上にかけていた小玉の上着を置いた。当たり前のようにペン立ては勢いよく床に散らばった。母親が振り向いた表紙に不安定に重なった雑誌などもバサバサとなだれ込むように散らばった。音に反応する素振りはまったく無い。
弥生が座り込む足元に物が散乱する。こうして一階の異常な光景が出来上がるのかと弥生は納得した。
「あら、あなた今日もいらしたの?」
母親の声色が変わり弥生を初めて見るかのように見つめる。
「はい?あ……お邪魔しています」
何をされるんだろうと気が気ではなかった。後ろに縛られたロープをなんとかして解こうともがく。徐々に緩くなっているようだが、解ける様子はない。母親とは目が合っているように見えるが、その視線は自分を通り越し壁の外を覗き込んでいるように瞬きすらなく動いていない。
「この間、ウチに泥棒が入ったのよ」
「……泥棒?」
「そうよ、その犯人、私知っているの」
会話が飛ぶごとに母親の声色や話すスピードが変わった。
「後ろの家の坂本さんよ。昔お父さんがあの人にお金を貸したの。味をしめたのね、お父さんが死んでからやたら家の周りをウロウロして、気持ち悪いったらないわ!ああいう人間にだけはなりたくないわね」
まるで知り合いに話すような口調になり、また間が空き、表情が変わった。
「あなた…………お子さんはいらっしゃるの?」
「えっ?……い、え、……」
「……私の子は幸彦っていうのよ……男の子で、まだ小学生なの」
遠くを見つめる母親の目が何かを懐かしむようにゆっくりと細まった。上司である小玉幸彦は間違いなく四十歳を超えている。このときようやく弥生はこの老婆が認知症であることを理解した。
「わたしにもいます。男の子が……ミヅキって言います」
言っても忘れてしまう。そう思い弥生は母親に言った。
「あら、そうなの。幸彦はこのあいだ算数で満点取ってきたのよ。先生にも褒められたんだから、さすが私の息子よ」
認知症特有なのか、一点を見つめたままあまり顔の表情が変わらない母親が初めて笑顔らしい表情に顔を歪ませた。
「幸彦は小さい頃から身体が弱くて、しょっちゅう風邪を引いては寝込んでいたの。それが感染って次に私が寝込むとまだ熱が下がっていないのに今度は私の看病をしてくれたのよ。本当に優しい子なんだから」
弥生の受け答えになんの反応もないまま母親は独り言のように続けた。
「この間、幸彦がデパートで迷子になったの。ほら三丁目のデパートって屋上に遊具があるでしょう、あの乗り物が大好きでしょっちゅう幸彦と行っていたのよ。迷子になったのはほんの一瞬だったけど私にはとてつもなく長い時間だった。もう二度とあの子に会えなくなると思っただけで心が張り裂けそうになったわ」
きっと、耳にタコができるくらい何度も家族に聞かせている思い出話しなのだろう。
「アナタは決して、子供の手を離しては駄目よ」
母親は初めて弥生と目を合わせ力強く言った。
「絶対に、離しては駄目よ」
「……え?」
両手足を縛られている身として会話が成立しているようには思えなかったが、まるでミヅキの事を見透かされているような気がした。
「午後から佐藤さんが来るからそろそろ支度をするわ」
そうまた脈絡のない話をすると、ぶつぶつと呟きながら母親はゆっくり、本当にゆっくりと階段を降りていった。耳を済ますとまたテレビの音が聞こえる。
弥生は大きくため息をついて散らかった部屋を見るとベッドの下に落ちているカッターナイフを見つけた。先程のペン立てにあったのだろうか、足で挟み込み後ろに回された手で掴むとロープを切り始めた。ドラマの世界のようにスルスルと切れるものではない。
後ろに縛られた見えないロープを感覚だけで切るのはとても歯がゆく難しい作業だった。なるべく同じところをノコギリのように上下で揺らしながら切るようにイメージして腕は外側に引き、常にロープを張るように力を込めるとあっという間に全身に汗が滲んだ。
三十分以上時間を掛けてようやくロープがゆるくなり手を前に回すと、すっかり肩が張り、全身に力が入らなかった。手首の周りにはカッターの歯が当たったせいかところどころ血が滲んでいた。
自由になった両手で足のロープも解き、ダルくなった肩を引きずりながら自分のバックを取り、そっと下へ降りた。母親はソファにちょこんと座り、弥生が目の前を通っても気づいていない様子だった。
リビングは強盗が侵入してもこんなに荒らすことは出来ないだろうというほど足の踏み場がなかった。異様な光景に息を吸い込み急ぎ足で弥生は玄関へ向かった。
ガシャン。
玄関のドアがビクともしない。
ガシャン、ガシャン−—−—。
鍵を確認してもやはり開かない。
「どうしてっ、」
ドアを何度も前後に振るが開かない。ノブを触りながらドアの先に当たる雨音が聞こえる。はっと弥生はこのドアが外からの施錠されていることを思い出した。
どこかの窓から出るしかない。そう思い振り返ると弥生は悲鳴をあげる声をなんとか飲み込んだ。
先程までテレビを観ていたはずの母親がいきなり目の前に立っていたからだ。亡霊のように無表情でどこかを遠くを眺めているような視線。シワの刻まれた唇は乾いて薄っすらと開いている。曲がった腰に猫背の姿勢、リビングから漏れる逆光のせいでどこか大きく見えた。
「あ、あの……」
弥生が控えめに声を掛けるも老婆に反応はない。扉に雨音が当たる音が聞こえる。
「私、家に帰りたいんです。ミヅキが、……息子が家で待っているんです。もう会えないかもしれないんです。帰りたいんです。お願いします」
弥生は訴えた。何を言っても無駄かもしれないのにそう思えば思うほどこの老婆には素直に言えるような気がした。弥生の目頭にはなぜか涙が込み上げてくる。
涙が溢れる前に鼻をすすると、逆光する影がゆっくりと動いた。見ると母親がどこかを指さしている。
「……?」
指差す方はどうやらキッチンのようだ。
リビングに続きキッチンの光景も異様だった。テーブルには未使用の食器が重なり、戸棚はその全てが開いていた。流し台や冷蔵庫などよく使う動線のみ確保されていて他は分別されていないゴミ袋が山積みになっていた。カビ臭さと生臭い匂いが籠もっている。
母親は流し台の奥のパンパンに詰まったゴミ袋が縦積みになっている方を指さしている。弥生がゴミ袋をどかすと勝手口の扉が出てきた。ベタついた扉の内鍵を回すと扉が少し開き、外からの冷たい風が首元をくすぐった。
「ここから出られる」
弥生は小さくそう言って、さらにゴミ袋をどかし始めると最後は雪崩のように道が開いた。
扉を開けてそのまま出ようとしたときに振り向いた。
母親が無表情で弥生を見ている。
弥生は散らばったゴミ袋をかき分け母親の元へ駆け寄る。
「お母様ありがとうございます。わたし息子の元へ帰ります。……今日だけは私の息子なんです……」
不安をごまかすように弥生は老婆を優しく抱きしめた。老婆になった母親は少しだけ仰け反ってそのまま一点を見つめている。
「あなたお子さんがいらっしゃるの……私にも息子がいるのよ……まだ小学生で……幸彦っていうの」
息子という言葉に反応するように母親は部屋と同じことをつぶやいた。
「知っています。課長は不器用で、寂しがり屋で、とても優しい人です」
弥生がその顔を覗き込むと母親は何事もなかったかのように口を開けたままどこか遠くを見つめていた。
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