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松永弥生6
雨は更に強くなり、湿った風が身体中にまとわりついた。弥生は息を切らしながらなるべく何事もなかったかのようにタクシーを拾い家路を急いだ。伝線したストッキング、手首に滲んたロープ跡と切り傷。身体からは人の家の匂いと混じった体臭で酸っぱい匂いが漂っていた。タクシーの車内ではなるべく運転手と目を合わせないよう俯いた。スマホに夫からのそっけないメールが入っている、やはり今日も泊まり込みで仕事らしい。
ミヅキのレンタルは夜の九時から。スマホを見るとすでに十時を回っている。当直した我が家は街灯も着いておらず静まり返っていて誰も家にいる気配はない。お釣り入りませんと急いでタクシーを降り、念のため小さな庭を覗いたが外にもいないようだ。
「ただいま、ミヅキ?いる?」
返事はない。
ミヅキにはもう会えない。どこかでこうなるような気がしていた。
レンタルチルドレンのサイトは相変わらずシステムエラーが続き画面が動かない。
小玉がサイトを運営している会社を見てくるとかなり興奮しながら家を出たが、どうなっているのだろうか。弥生はレンタルチルドレンについて検索をした、ヒットした掲示板の口コミを読むとサイト運営側の暴力団関与、幼児虐待、売春、など物騒な情報が出回っておりさらに読み進めると麻薬売買のサイトのURLまで出てきた。
ため息をついてリビングのソファへとなだれ込む。卓上カレンダーには同窓会と書いた今日のスケジュールの下に小さな丸が書いてあった。弥生は雨に打たれた汚れた身体を流すため浴室へと向かった。
ガコン――。
庭にあるガーデニング用品が風で飛ばされる音がした。
「――っ?」
シャワー中の弥生にもその音は響いた。無防備な状態で浴室の曇りガラスの窓を見る。
一瞬、誰かの気配を感じた。
弥生はシャワーを止め耳を澄ます、窓に打ち付けられる雨音と風の音がさらに強くなっていく気がした。ミヅキではない誰かがわたしを監視している気がする。ここ数日の違和感と続けざまに起こる出来事。目に見えない恐怖が弥生の体中を駆け巡った。
浴室を出て身体を拭きながら手首に小さな痛みが走る、ロープを切る際にカッターでできた切り傷だった。それを見ながら小玉の顔が浮かんだ。
黙って出てきてしまった。わたしが家に居ないとわかったらあの調子では追いかけてきてもおかしくない。今もこの家の周りにいるかも知れない。
下着をつけながら自分の身体を見る。年相応の身体つきだと思う。痩せ気味の身体に小さめのバスト。これが好きだと言ってくれた紫乃を思い出した。
そういえば今日は同窓会だったんだ、色んなことがあり過ぎてもう何週間も前のことのよう。帰り際、紫乃は何か言いたそうだったけどあの後はちゃんと帰れたかな。
寝間着に着替えると部屋の中を恐る恐る見渡しながら寝室のベットへ潜り込む。濡れたままの髪のせいで体中がひんやりとした。こんな夜はレンくんに温めてもらえたらいいのに。あれが最後のレンタルになるのなら寝落ちせずに、レンくんの話を最後まで聞いてあげたかった。いつか子供が出来たよって報告したかった。レンくんならきっと自分のことのように喜んでくれる。
サイドテーブルに置いた照明のリモコンを取り、夜光モードにする。一瞬で部屋が暗くなると、目の前に、金髪の若い男が立っていた。あまりの突然に驚きと恐怖で声も出せない。そのまま口を塞がれるように力強くベッドに頭を押し付けられると男はニヤリと笑った。頭まですっぽりとかぶったフード付きのパーカー、長い前髪、その隙間から見えるギラギラとした目。見覚えのあるその顔はミヅキとスーパーへ買い物へ行ったときにぶつかった若い男だった。身体が震えすぎてまるで発作が起きているみたい。まるで言うことを聞かない。自分自身、抵抗すら出来ているのかわからない。男はかぶっていたフードを取り、右ポケットからバタフライナイフを取り出した。それを見た弥生は声にならない悲鳴を上げる。
あぁ、そうか、ミヅキはこの男に殺されてしまったんだ、だから今日はレンタルに来てくれないんだ。恐怖の中で妙な納得をしてしまった。わたしももうじきそっちへいくから、もう少し待ってて。そう思った瞬間に手早く男はナイフを振りかざしてきた。
バイブ音で目が冷める。身体は硬直したまま目を見開き辺りを見渡した。寝室のベッドにはもちろん誰も居ない。ドクドクと心臓が大きく脈を打ち、気づけば肩で息をしていた。あまりに疲れているせいか、一瞬眠りに落ちてしまったらしい。薄暗い部屋のなかサイドテーブルに置いたスマホが煌々と光っている。見ると夫からのメールが入っていた、同時に時間を見るがあれから三十分も経っていない。
むくりと身体を起こし、深呼吸をした。喉の渇きに弥生は無意識にキッチンへと向かった。冷蔵庫のミネラルウォーターをコップへ注ぎゴクゴクと喉を鳴らして飲む。冷えた水は身体と頭をスッキリと潤した。
ふと、ミヅキに渡した家の鍵を思い出したのだ。妙に恐怖心を煽る理由がわかった。そうだ、今日は同窓会で遅くなるからとミヅキのランドセルに家のスペアキーをくくりつけていたんだ。
そっと玄関先を見つめた。今にも鍵を回して誰かが入ってきそうな気がした。
もしかしたらあの鍵が誰かの手に回ってしまったら……そういえば小玉さんもミヅキのことを知っている感じだった。小玉さんに鍵が奪われてもおかしくはない。姉妹店で働いていたレンくんが持ってたりとか、もしくはサイト運営会社の暴力団に合鍵とか作られたら……行き過ぎる考えは宙を舞った。
玄関口のチェーンをかけようと手を伸ばす。
でも……
やっぱりミヅキが来るかもしれない。あの子は約束を破るような子じゃない。レンタルをキャンセルするようなことは一度だってない。レンタルしていなくても時々家に来てくれたくらいだもの。鍵を渡して数日経っても今日まで何も起きていない。もしかしたら夜中にこっそり来るかもしれない。こんな雨の中外で過ごさせるなんて絶対出来ない。もし来てくれたらきっとそれが最後だ。
手首に巻いたピンクのシュシュを触る。
弥生はチェーンから手を離すとそのまま玄関から離れた。
明日までにミヅキが来なかったら、家の鍵を変えよう。
たぶん、もうミヅキには会えない。
リビングを見て誰も居ないことを確認すると小さくため息をしてまた寝室へと戻って行った。
止まない雨。
身の回りに起こっている何か。
何故か誰かが自分を訪ねてくる気がしてならなかった。
来るとしたら誰になるのか。
やはりあの家から逃げ出してきた小玉なのか、
来るはずのミヅキなのか、
来るはずだったレンくんなのか、
わたしのピンチをいつも助けてくれる紫乃なのか、
暴力団に巻き込まれて金髪のチンピラでも来るのか、
はたまた夫の浮気相手の女が乗り込んでくるのか、
確か夫の出張先は今日も仙台だった。
誰が来ても、自分の理由だ。
広いダブルベッドの中で不安を押し込めるように固く目を閉じる。
「君のことは、私が守ってやる」
そう声が聞こえた瞬間に右肩に痛みが走った。カッと目を見開くと暗がりの部屋に大きく伸びた影が見える。影の先端から銀色に光る突起物、振り下ろすように真上に伸びる。
「いやぁぁぁぁぁああぁぁああああぁ」
咄嗟的に出た声、今にもギロチンのように降り落ちてくる伸びた腕。訳も分からず身体が我が身を守ろうともがく。掛かっていた布団を投げつけバタバタと手足をばたつかせた。瞬時に逃げたいのに腰が持ち上がらない。サイドテーブルにあるライトスタンドのコードが引っかかり大きな音を立てて落ちた。暴れた足が何かにぶつかる、一瞬相手がくの字に歪んだような気がして、弥生は転げるように反対側のベッドの端に落ちた。距離が出来る。これは、夢ではない。
「え、だ、誰!?」
激しく乱れた呼吸に全身が震える。声のボリュームすら制限できない変に冷静になったような声が部屋に響く。自分の右肩を自分の左手が抑えている。どうやら血が流れているようだ。しかし目の前の状況に頭が混乱して痛さもさほど感じない。部屋の反対側に屈んだ相手から視線を外せない。強盗?のはずない。きっとよく知っている人のはず。その人はわたしを刺し殺そうとするほど憎んでいる人だ、やっぱり夫の浮気相手なのか、相手は隠れるように身屈んだまま起き上がろうとしない。自分の吸い込みすぎる呼吸音が聞こえる。
「や……やよ……ぃ」
聞き覚えのある声に、息を飲む。呼吸音が止まると部屋は耳鳴りがするくらい静かになった。心臓の鼓動で視界が揺れる。暗がりに慣れたきた視界に血のついたアイスピックが床に転がっている。
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