32人が本棚に入れています
本棚に追加
小玉幸彦7
「小玉さんですね、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
警察署は夜間のせいか、人が疎らだった。入口付近には警察のマスコットキャラクターのパネルがにこやかに出迎えている。空になっている交通課を通り抜け、奥にある会議室のような場所へと案内された。
「ちょうど巡回中だったので、こちらで保護させていただきました、いや家族の方と連絡がついてよかった」
関内と名乗る警察官の男はおそらく小玉と同世代くらいの年齢だろう。丸い背中、制服のうえからでもわかる中年太りをした腹まわり。年齢に不釣合いな田舎くさいりんごのように赤い頬。外回りが多いのか日に焼け、シミの付いた黒い顔。いい歳をして、この人も自分と同じように出世できず夜間パトロールなどしているのだろうか、と瞬時に頭を過ってしまう。
「小玉さーん、お迎えが来ましたよー」
長テーブルが並ぶ広い会議室の端にちょこんと座っていた。もちろん反応はない。
「なにやってるんだよ……母さん」
小玉の母親が宙を一点に見つめている。裸足で歩き回ったせいでズボンの裾まで泥まみれとなり、伸ばしっぱなしになったわかめのようにうねった髪が濡れ、薄くなった髪の隙間から頭皮が見えていた。
自宅から一キロほど離れた国道のバイパス道路の端っこを傘も差さずに裸足で老婆が歩いていると通報があり、警察に保護されたという。
「事故に遭わなくてよかったです。とりあえず、こちらに住所とお名前を記入していただいて今日はおかえりになって結構ですから」
関内がそう言うと書類のようなバインダーに目を落とした。母親の肩には毛布が掛けられている。
「か、勝手に家を出るなって言っただろう。警察の、世話になるなんて……」
小玉が少しだけ声を荒げて母親に言った。母親はまだ宙を見ている。
「まぁまぁ。えっと、保護者の方は……息子さん?で、いらっしゃいますか?」
「……そうです」
バインダーを広げた関内の左薬指には年季の入った光沢のない結婚指輪があった。
「そうですか。通報があったから良かったですけど、夜の徘徊は交通事故などにも繋がりますから注意してください」
「徘徊って……家を出たのは今回が初めてで……別に……」
「小玉さん、介護認定の申請はされていますか?」
「……いえ、」
「認知症による高齢者の行方不明者も年々増えていますし、一度要介護認定の申請はされてみてください。心苦しいかもしれませんが、施設の利用等も検討されたほういい。保険による給付もありますし、命に関わることですから」
関内はバインダーの書類に慣れた手付きで何かを書き、くるりとこちらに向けた。
「じゃ、ここに住所と、ここに名前を、ふりがなもお願いしますね」
命に関わること。の割にはこの流れ作業か――――。
ボールペンを握る自分の指先が長時間雨に当たっていたせいでふやけている。手にしたわら半紙の書類が濡れてどんどんグレーに染まっていく。
「え〜っと……小玉、幸彦?さんですか?」
「そうですが、なにか?」
「いや、こちらのお母さんは、和彦さんという方を呼ばれていたようですが」
「あぁ、父の名前です」
「失礼ですが、お父様は?」
「他界しています」
「ご結婚は?」
「いえ……」
「じゃぁ、お一人で介護を?」
ついさっきまで自分は正義感の塊でなんの迷いもなく、愛する女性のヒーローだった。彼女のために危険を投げうってまでストーカーから救い出したはずだった。
「こ、今後については……かの、パートナー……と一緒に、話し合ってみます」
警察から連絡が来て、一瞬自分が捕まるんだと思った。出来もしないヒーローごっこに。天罰が下ったんだと。女神を救い出すはずが結局、徘徊する認知症の老婆を救うのに精一杯だ。
「あぁ、その方がいいですよ!仕事をしながら一人で介護なんて本当に大変ですからね」
「そうですね……」
弥生を救い出さないと。俺の女神を。
「でも気をつけてくださいよ〜」
「え?」
「介護による嫁姑バトルは離婚問題に直結ですから。あくまでも奥さん、パートナーの味方になって立ててあげないととても介護なんてやってもらえませんよ」
「はぁ……」
女神を救い出すどころか、たった今、弥生を監禁しようとしていたなどとは言えるはずもない。もう少しで彼女のストーカー容疑で俺が警察に捕まり、犯罪者のまま職を失って残りの人生を棒に振るところだったのか。
「小玉さーん、息子さんがお迎えに来ましたよー、帰りましょーねー」
関内が母親の肩に優しく手を置くと肩に掛かった毛布をもじもじと触りながら宙を漂う視線が関内に傾いた。
「まぁ、家では嫁と姑の板挟みになってそれも難しいですがね」
認知症を患った母親の存在をお構いなしに関内は話を続ける。
「はぁ……そうですか」
警察官の割によく喋るやつだ。俺ではなく自分の身の上話をしているみたいだ。
「結局、世の中の男なんてみんなマザコンですから、自分の母親が危ない目に合ったら嫁なんか二の次になってしまうもんです」
いつぞや聞いた台詞だった。
あぁ、あの小学生に自分が言った台詞だ。どんな母親でも結局男はマザコンなんだ、と。
湿気のこもった家。カビと食べ物が腐ったような匂い。一日中つけっぱなしの大音量のテレビ。物が溢れたあの家で、弥生を救おうとした今日。
結局、俺が手を伸ばしたのは、女神ではなく老婆だった。
「母さん、行こう」
小玉は母親の傾いた視線をこっちに向けようと手を引っ張った。
「あら、あなたの息子さん?私の子はね幸彦っていうのよ……男の子で、まだ小学生なの」
掛かった毛布がはらりと肩から落ちた。関内に話しかけるように母親が薄っすらと微笑んだ。小玉は猛烈に恥ずかしさのようなものがこみ上げて、関内の顔が見れない。
「幸彦はこのあいだ算数で満点取ってきたのよ」
「母さん、いいから早く、」
無理に立ち上がらせようと強く腕を引く。
「とっても優しい子なのよ」
すると肩から落ちた毛布はスルスルと床に落ちていった。小玉はすぐさまそれを拾おうと腕を伸ばす。
「お父さんにそっくりの、自慢の息子なのよ」
母親の優しい声が響く。
毛布を掴んだはずの小玉はその場でうずくまってしまった。関内が、同情するようにまた小玉の肩に手を置いた。
「何言ってんだよ母さん、俺はもう子供じゃないよ」
鼻をすすり、泣きじゃくった声でそういった。涙が床に落ちる。これまで小玉の中で張り詰めていた色んなものが流れ落ちるように手の甲でこすってもこすっても涙が溢れ出てくる。
そう言ってもらいたかった。
落ちこぼれでもなく、出来損ないでもなく。
ずっとずっと、昔からただそう言ってもらいたかった。
「私の自慢の息子なのよ」
最初のコメントを投稿しよう!