それから三年後

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それから三年後

 「いいなぁ、シンガポール。わたしも行きたかった〜」  パタパタとスリッパを響かせながら夕食の支度をしている弥生が言った。 「いいなぁって、こっちは仕事なんだぞ」  風呂上がりの康介が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。テーブルに着くとビールをコップに注ぎ、お互い小さく「お疲れさま」と乾杯する。 「まさかシンガポールに出張なんてさ、康ちゃんの会社も随分とグローバル化したよね。あれ?シンガポールって英語だっけ?中国語?康ちゃん喋れるの?」 「クライアントは日本人だから問題ないんだよ。テレビ電話で何度か話したけど随分若い社長さんだったなぁ。しかしなんで俺らの弱小会社に依頼したんだか」 「え、向こうから依頼された案件なの?」 「まあね、うちは生粋の日本企業だし、海外にクライアントなんているわけないだろ。でも、口コミで聞いたとかなんだとかで俺のこと名指しで依頼してきたんだぜ!誰の口コミだか知らんないけど普段から仕事をちゃんとやってれば自ずと結果がついてくるんだな」  康介は得意気に話すとビールを一気に流し込み喉を鳴らした。それからまるで自分の事のようにクライアントのことを話し始めた。シンガポールを拠点とし日本との観光ビジネスに目をつけ、旅行会社、各交通機関、病院まで抱き合わせたアプリを開発し、ヒット。今では現地の人を雇い、コールセンターや言語スクールなどの開設まで行っている。そもそも二十代の日本人男性二人だけの小さなベンチャー企業がシンガポールの大使館まで巻き込む勢いとなっているらしいのだ。 「マジですごい勢いだよな!噂では年商五億くらいいってるんじゃないかって話でさ。会社ももう一部上場されちゃえばいいと思うんだよな」  自慢話のように話は続き、そのすごいクライアントに認められた康介を弥生は純粋に尊敬した。  それからすぐにシンガポールの日程が決まり、いつもの出張より少しソワソワしながら夫は日本を後にした。  また静かになった家に弥生はいつもどおりの生活を送っていた。 あれからレンタルサイトは警察の捜査が入り、ネットと一部の週刊誌のネタにはなったが、思った以上の話題にはならなかった。ちょうど同じタイミングで世間では旬の若手俳優の不倫報道にニュースは持っていかれてしまい、あっという間に情報はかき消されてしまった。どうやらいまどきは幼児売春よりも芸能人の不倫報道のほうが価値があるらしい。 小玉さんは変わらず会社に通っているが、わたしへの執着はなくなった。むしろわたしが警察に訴えないか怯えていて腫れ物に触るような気遣いまでされている。お母さんを施設に預けるようになったみたいで、小玉さんは以前より穏やかになったように見えた。 紫乃とも変わらずたまに連絡を取り合っている。今は千葉から埼玉の方へ引っ越して新しい職場についているらしい。美羽ちゃんはもうじき小学生だ。 わたしはあれから夫の調査をやめた。なのでここからは女の勘になるが、恐らく康ちゃんの浮気は続いている。出世をするたびに男性は自分に自信がついていく。だからわたしとの夫婦関係も常に良好だ。家族は複雑で、割り切れなくて、憎らしくて、愛おしい。それを教えてくれるのが家族以外の人間だからまたややこしい。  それがわたしにとっては小玉さんであり、紫乃であり、レンくんであり、そして――――ミヅキだった。  あの時のレンタルチルドレンの出来事や不妊治療の経過などをわたしは日記がわりにインターネット上にある「エブリスタ」というウェブ投稿サイトに書いている。小説やエッセイ、詩や歴史モノなどストーリーとなるものを誰でも無料で自由に書き、自由に読めるサイトだ。 フィクションとして現代小説の体で書いているわたしの日記は月一回程度の更新なので閲覧する人はほとんどいない。書きはじめの頃は不妊治療に共感してくれた読者がコメントをくれたりしていたが、三年たっても完結にならない現代小説はプレビュー数を確認しても月間で二、三件程度だ。それでも必ずみてくれていつもいいねのアクションをくれる人もいたりする。  わたしにはそれがどうしようもなく嬉しい。 そのユーザー名は「水無月(ミナツキ)」。 読む専門でわたしの小説が更新されるたびにいいねをくれる。コメントは一度たりともないが今では間違いなく「水無月」のために書いている。 「水無月」はまるでわたしの一方的な文通相手になってくれているみたいにその日のうちに必ずいいねを送ってくれる。 そのリアクションが来るたびにわたしの心はほっこりと温かく優しい気持ちなるのだ。 わたしがつらい不妊治療に耐えられるのは間違いなく水無月のお陰だ。水無月と繋がっている限り、この小説はまだまだ完結出来そうにない。  窓の外を見るとポツポツと雨が振り始めていた。梅雨の季節になりここ数日雨が続いている。小説投稿を終えてノートパソコンを閉じる。久しぶりの小説の最後はこう書いた。  明日は六月六日。わたしは予約していた誕生日ケーキを取りに行くことにした。  傘を差して家を出ると、弥生の心はとても晴れやかな気持ちになっていた。 「水無月」からのいいねが楽しみで仕方がない。
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