建前を握り締め

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「おはようございます」  監督の指示を聞いた部員たちが元の位置へ駆け出すのを見計らって、伊織は監督の元へそっと歩み寄った。迷いはなかった。 「……相山か?」 「はい。ご無沙汰してます」  喜ぶべきか胸を痛めるべきか、数年ぶりだというのに、一目見て名を呼ばれた。 「お前……たまには顔出せよ」 「はい」  会話はそれで終わりだった。監督は何を告げるでもなく、さっさとその場を離れてしまった。  高校二年の三月、伊織は怪我を負った。公式戦でも何でもない、隣町の高校との練習試合だった。駆け寄ってきた敵チームの選手にフェイントをかけ、反対側へ切り返した瞬間、左膝に強烈な痛みが走った。前十字靱帯断裂、全治一年。手術をせず同じように負荷をかけ続ければ、歩くことすら叶わなくなると告げられた伊織は退部を決意した。  かつてエースだった伊織は、チームにとってなくてはならない存在だった。これは自惚れでも何でもなく、動かしようのない事実だった。実際、当時のキャプテンを始め何人ものチームメイトが足繁く病室に通い、何とかリハビリで持ちこたえてくれないかと懸命に説得を試みた。それでも伊織の気持ちは変わらなかった。一度決めたら動かない伊織だが、唯一躊躇ったのは監督に退部の意を告げる時だった。 『監督……申し訳ありません。退部させてください。お願いします』  人気のない体育準備室に腰掛ける監督の表情は読めなかった。伊織はただ頭を下げることしか出来なかった。散々世話になってきた監督に何か言われたら、自分はサッカー部に留まることを選ぶだろうと、心のどこかで分かっていた。 『……わかった。しっかり治せよ』  長い長い沈黙の後、伊織に落とされたのはたったその二言のみだった。あのときの監督が何を考えていたのか、伊織には今でも分からない。卒業式の日に挨拶へ向かったときも同じだった。しっかりやれよ、とただ一言。そして、今日。数年ぶりに顔を合わせたというのに、監督は相変わらず監督のままだった。 「相山? 相山じゃん!」  じっと考え込んでいる伊織の元に、懐かしい声が飛んできた。 「土井先輩……?」 「おー、いや、ホントひっさしぶりだなあ! 何、ちょっとミニゲームんときとか入ってみる?」 「いえ、遠慮しときますよ」 「はははは! 相変わらずノリ悪いなー」  現れたのは、一学年上の代のキャプテンだった。
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