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「免礼」
その声に見上げると、逆光の中のすらりとした男の後ろ姿に、泰王はごくりと生唾を飲み込んだ。
ー二哥
男が振り向くと、少年のまま亡くなった東宮ではなく、若いが立派な皇帝がそこにいた。
盛春の花園で、花を愛でる趣味がこの無骨なお方にあったとは。
「呼び立ててすまぬ。一人では決められぬゆえに」
なんでございましょうか、と泰王は控えた。
「昨日、廃后が亡くなった」
「墳墓の格式のことでございましょうか」
いかにも、と皇帝は頷いた。
「父帝に廃されたとはいえ、我らは嫡母と呼び慣わしたお方である」
あの廃后のことである。皇后復位の可能性を失って、失意の中で亡くなったとは思えない。むしろ、皇太后に封じよとでも主張し、毒を盛られたのであろうか。
「とはいえ、父帝に反旗を翻した張本人ではありませんか」
戦闘を繰り返し、短命の続いた楊家の皇帝にしては長寿だった帝に対し、蠱毒を行い、養子にした東宮の即位を願った。
「父帝が許さぬ中亡くなった以上、皇太后の礼はありえぬ。しかしながら、奴婢のまま打ち捨てるわけには行くまい」
「しかしながら、皇后の礼で行えば、楊明の復権を許しかねません」
皇帝は無言で同意した。
賢徳太子と諡された楊暁の早世の後、皇后は母を失った第四皇子の楊明を養子に迎えた。今は、古都杭州に幽閉される廃太子である。
「皇上。覚えておいででしょう。私がどれだけあの廃后に邪険に扱われたか。そのような人間に問えば、美人の扱いで十分だと申し上げることになりますぞ」
「朕だって嫌がらせをされた。呼ばれて出て来れば、埃っぽいだの。軍を率いる身ゆえに埃っぽくなるのは仕方がないではないか。身を清めて向かえば遅いだの。あのお方には本当に困った」
笑いながら皇帝も答えた。
「出された食事が、生ごみでしたな」
「その通りよ。ご丁寧にも、表面だけは取り繕ってある。あの料理人は飾りつけの腕だけは確かだったゆえ、首を刎ねるのは惜しく、廃后の食事を担当させた」
ー盛ったか、食中毒でも起こさせたか
「今は?」
「知らぬな」
皇帝はうそぶいてみせた。
「朝臣はみな、廃后のなさりようを知っております。我が申しましょう。奴婢には奴婢の埋葬があると。そうすると、あまりに極端ゆえに反対意見が出ます。皇后の礼でという意見も出ますゆえに、我が父帝の石室には林太后お一人で十分と申しましょう。それゆえに、嬪、ただし父帝とは別の石室に、他の妃嬪と共に埋葬するとお決めになればよろしいのではありませんか?」
「……二哥の石室は、いかが思う」
ー兄上
答えられずにいると、皇帝は畳み掛けた。
「二哥は、実に英邁な帝になられたであろうに。あれが生母とは思えぬ」
泰王は杖に縋りながらひれ伏し、震える声で答えた。
「……賢徳太子の石室には、将来、法華寺の門跡をお入れになりますよう」
法華寺は尼僧院の一つである。先帝の妃を入れる尼僧院は華台寺である。格式は法華寺の方が高い。
楊暁の正妃になるはずであった、李蓉という娘がいた。大臣の娘であった。嫡出の皇子、それも太子が没したのである。その婚約者を正妃にすれば、と思った人がいたのだろうか。楊暁没後、弔問に訪れた李蓉はその場で髪を下ろして、楊暁の棺に髪を入れ、その足で法華寺へ入った。まだ若いが今は門跡になっている。人がいれば社会になる。それは俗世でも出家の身でも変わるまい。その俗世での尊い身分故に、李蓉は尼僧院で苦労したであろう。しかし、門跡になった。
ーさぞや英邁な帝と、優れた皇后になられたであろうに
ふっくらとして快活だった李蓉は、発熱した楊暁を寝ずに看病しつづけ、骨と皮になっていたという。
泰王本人もまだ熱に浮かされていたために、見ていない。
法華寺には何度も足を向けたが、かの尼僧は決して泰王には会おうとしない。
三哥は足が悪いのだ、と皇帝に助け起こされながら、泰王は言った。
「我らが兄弟の誰かとともに、廃后を埋葬するのであれば、楊明になさいませ」
そのときのことである。
「報告いたします!」
近寄ってはならぬと命じられているのだろう。宦官が甲高い声で少し離れたところから声をかけた。
「許す」
近寄るのを許され、宦官が折子を差し出した。
「杭州からでございます」
受け取りながら、うっすらと皇帝・楊景の薄い唇が歪み、微笑みが浮かんだ。
「皇兄、ご覧あれ」
皇帝は泰王に直接折子を渡した。
差出人は、杭州太守の張英である。
「先帝の第四皇子・楊明、今朝自刃して果てり」
万事心得たりと宦官が泰王に両手を差し出した。泰王は折子を宦官に渡すと、そのまま大きな声を出さねば届かぬ距離に控えた。
泰王の背筋に冷や汗が伝った。
木の枝ぶりを見るかのような仕草をしながら、楊景は語るのである。
「廃后が死んだのは昨日の夕方であった。朕はそのまま早馬を駆けさせ、髪の毛一筋を杭州に送った」
にっと泰王の方を向いた。
「三哥の意見を容れよう。四哥の石室に廃后を嬪の格で葬ることにしよう。明日の朝は茶番に付き合っておくれ」
泰王は、詰まらせながら、答えた。
「二人の喪も、この泰王が、務めまする」
「それには及ばず」
楊景の返事は意外なものであった。
「杭州へ行き遺体を都に連れ帰って貰おう。そうすれば、初めの半年が終わる。その後は六弟を皇陵に遣わす。朕は前線に行かざるを得まい。それゆえに三哥にはこの建康を預かってもらう」
「太后さまや皇后さまに預けるものではありますまいか」
楊景は首を振った。
「皇后は身重。さらに朕の母は元は奴婢。学がなく預けるには不適である。今後も皇太后に皇后の命に従わせるのも気の毒である。廃后の例を出せば、女人に都を預けたくないのも通らまいか」
「他に、適任は」
楊景は再び首を振った。
「三哥は二哥を支えるために、教育を受けてきたお方ではないか。朕は生まれながらに候を定められ、兄弟では唯一軍に送られた。軍略ならまだしも、」
そこで言い淀み、謙遜してみせた。まさかまさか、東宮時代から立派に差配してきたではないか。
「この兄は、右足に力が入らず、廃物、不具とあだ名されるのですぞ。誰が我の言うことを聞き、」
楊景は再び、にっと笑った。
泰王はひっと息をのみ、続けた。
「心得ました。なんなりとお申しつけ下さい」
楊景は泰王の手を両手で包み、トントンと優しく叩いて答えた。
「朕は前線へ行き、この国土の統一を目指す。三哥は都から朕を支えて欲しい」
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