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篠崎はカップを手に取り、唇の端を曲げた。相変わらず人を食ったやつだ。それに、鼻先をかすめたコーヒーの香りが、自分の好みの銘柄ではないせいでもあった。これだから新米の秘書は困る。
「お前、昔はどうあれ、今そんな態度じゃ――」
「お蔭様で弱小プロダクションの無名社長だよ。お察しのとおり」
そう言われても、別に嬉しくはない。実際、言った本人も恬淡に笑っている。
過去の栄光がどれだけのものであろうと、「今」勢いのあるものに食いつき、縋りつき、追従して野心を遂げるのが業界人というものだ。
少なくとも自分はそのようにして生きてきたし、それで多くのものを得た。後悔などしていない。
それどころか、経験談を講演してくれ、と依頼されることも多く、誇っている、と言ってもいい。
だが彼に――大野次郎に、そんなことはどうでもいい、と言わんばかりの口調をされると、その心が揺らぐ。彼は長い間この世界から離れていた「部外者」だというのに。
彼が、かつては友だったからだろうか。
それとも、彼が業界で一世を風靡したあの当時を思い出すからだろうか。
篠崎にはわからなかった。
「なんで戻ってきた」
思いのほか冷たい言葉になった。自分はきっと、この男に腹を立てていたのだ。ずっと。
「何故だろうな。初めは自分でもわからなかったよ」
大野は、篠崎の言葉の棘に頓着した様子もなかった。
「運命ってやつかな。そうだな、あれを見つけた今なら、そう言ってもいいと思う」
それは昔の彼からは想像もつかないような、柔和な表情だった。
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