40人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ
『私をどうやって食べてくれるの?』
『ちゃんと料理してくれなきゃイヤよ…』
『全部あなたのものよ…』
『他の人にはあげないでね…』
『あなただけのものよ…』
五の章女
この古いビルに入るのは、もう何度目になるだろう。
男は女の許に通い続ける。
そして肌を重ね続ける。
もう自分でもどうすることもできない。
ただあの眼に語りかけて欲しくて。
淀んだ快楽に溺れる。
息苦しいほどの悦楽と退廃を伴い。
女は男に語り始める。
自分のことを。
「私が産まれた街は、大昔は活気のあった港町だったのよ」
「もちろん私はその時生まれてないけど」
女は無邪気に笑いながら話す。
「明治の頃は日本一の人口だったのよ。今じゃその影もないけどね」
男は黙って聞いている。
女の言葉を一言一句洩らさぬように。
「私は古い繁華街で育ったの。昔は花街で今でもその名残があって、子どもの頃はすごく活気のある街だったのよ」
「学校の帰り、道でよく芸妓さんとすれ違ったわ」
「昔は芸妓さんも全国的に有名だったんだって。今じゃ廃れて、何とか復活に力入れてるみたいだけどね」
「今は駅前の方に人が流れて、昔ほどの活気はなくなって大変みたいだけど」
女は懐かしむような顔で話す。
「私は兄と二人兄妹で、三つ上の兄がよく面倒みてくれたわ」
「両親は小さい居酒屋をやってて、お父さんの腕が良かったのか人柄なのか、繁盛店だったのよ」
「だから私達兄妹はなに不自由なく、街の人達も皆優しかったし、楽しく暮らせてたわ」
「私ね、女子校だったの。うーん、ランクは中位かな。でも伝統ある学校で、おばあちゃん、お母さん、娘みたいにずっとその学校って子が何人もいるのよ。すごくない?」
「友達は多い方ではなかったけど、皆好きだったわ」
「彼氏はいなかったわ。これでも別の学校の男の子に告白されたこともあるのよ。好きな人いたから断ったけどね」
女の好きな人という言葉に、男は少し反応する。
昔話なのに、何だろう?この嫉妬にも似た気持ちは…。
相変わらず眼に語られながらも、男は自身の感情に複雑な思いを抱く。
「その好きな人とは結ばれたけど、結局彼は私の願いを聞いてくれなかったの」
「あんなに愛しあっていたのに。彼は私から逃げたの」
男は嫉妬に似たのではなく、はっきりと自分が嫉妬していることを認識した。
最初のコメントを投稿しよう!