蝉時雨に沈む

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 お茶、というのは、彼女自身がお茶を飲みたい、という意味ではない。我が社には若手がご老体――もとい、敬愛すべき上司に朝一番のお茶を出すという因習――もとい、尊いならわしがある。今日の当番は僕であり、ここで遅刻して用意できていないと一週間先まで嫌味を言われ続けてしまう。もっともお茶の一つでも出せば企画申請書に押印してもらえるのだから安い労力だとは先輩――八尾さんの談ではあるが。なんにしろ、彼女はこんな僕にも注意喚起をしてくれる得難い人物だった。  勤め人の悲しいさがで、やらねばならない業務があれば、多少の無理はあっても身体は動き出す。大人二人は歩みを再開した。  ……さっきは少し危なかったね。二人して行き倒れてたかもしれませんね。真夏の遭難ね、そしたら今日の打ち合わせは誰に任す? 倉田さんあたりが妥当じゃないですか。そうね、〝テディベア〟よりは穏当に済むかも。ええ、まぜっかえさないだけ〝テディベア〟よりマシです。そういえば熱中症って労災下りるのかしら。因果関係の立証が死ぬほどめんどいんじゃないですか――  社内ジョークとスケジュールを織り交ぜた会話は会社に着くまで続いた。  到着してからは、デスクに向かう前に給湯室に向かう。まずはポットいっぱいに湯を沸かさねば。この暑いのに。  でも、と八尾さんは給湯室に入りかけた僕に声を掛けた。猫めいた吊り目をやはり猫めいて細め、ささやくように。  ――浮いたの、少し、気持ち良かったね。いっちゃってもいいぐらい。  八尾さんはわかりにくい冗談を好んで言う人だ。だから彼女が生真面目であると勘違いしている人は社内に多い。とんでもない。僕の彼女に対する印象と言えば「不謹慎」の一語に尽きる。     
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