蝉時雨に沈む

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 並木道の途中で足を止めた。繊細な秋虫の調べは儚く美しく、あのいっそ暴力的とすら呼べる蝉の啼き声とは比べるべくもない。  しばらくの間、耳を済ませていたが、ヒールの靴音は聞こえてこない。僕は少し歩調を緩めた。  八尾さんとは、それきりだった。 *  教材会社を退職後、義父の会社に就職し、文字通り身を粉にして働いた。経営企画部に籍を置きながらも、気まぐれに義父に随行を命じられ、家庭では良き夫、未来の頼もしき父、有望な娘婿をこなした。空白はむしろ恐怖だった。余白ができれば余計なことを考える。前職とは打って変わってがむしゃらに働いた。  そして季節をいくつかまたぎ、僕は久しぶりにあの音と再会した。  義父に呼ばれ取引先との会食に出席した後、一人地下鉄で会社に戻る折りだった。まだ梅雨が明け切らぬ時期で、重たげな灰色が都会の四角い空を塞ぐ。風のないひどく蒸し暑い日で、立っているだけで汗がにじんだ。それでも社用車で義父と一緒に戻るよりも徒歩と公共交通機関を選んだのは、束の間の休息を得たいがためだった。  オフィス街の谷間にある緑の良心とも呼ぶべき、小さな公園を横切ったその時。夏の前触れ、か細い蝉の啼き声と。  その一声は、鼓膜のその奥までも揺さぶり、記憶を手繰り寄せた。頼んでもいないのにするすると。       
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