蝉時雨に沈む

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 真夜中に啼く蝉に意味があったか、なかったか――なかったはずだ。少なくとも僕はそういう見解だし、八尾さんも蒸し返しはしなかった。当時、彼女にも別に相手がいたはず。  だからこそ、送別会で蝉時雨のせいだと言われ、僕はかなり苛立った。  関係の継続を望むものでも、(なじ)るものでも、強請(ゆす)るものでもなく、むしろ理由を蝉時雨に押し付け互いに恨みっこなしとした明言した、八尾さんなりの優しさと言えないこともなかった。僕が自意識過剰なだけで、純粋に仕事のミスを指していたのかもしれなかった。  だけど、どちらの意味にせよ、慰めが必要なほど僕は怯えても落ちぶれても固執していたわけでもない。実際、退職後の秋冬春と僕は忙殺され、すぐにこの一件を忘れた。  だのに。    今、脳裏には蝉時雨が降り注ぎ、同時に、薄闇の中で細められた瞳や青白い額のしょっぱさ、押し殺されたがゆえに本音と感じられた吐息が浮かぶ。真昼に思うにはあまりに不謹慎な記憶が、夏の始まりのか細い蝉の声に引き連れられて。    ――蝉時雨のせいだから。    八尾さんは、二人の浮わつきを蝉時雨になすりつけた。彼女の優しさなのか、大人の対応なのか、うまい手打のつもりなのか、ずっと違和感が残っていた。あからさまな不粋なやり口に、らしくないと思い、勝手ながら幻滅していた。     
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