蝉時雨に沈む

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 ――蝉時雨のせいだから。あの日のことは。気にすることないから。  正面に座る八尾さんの言葉の意味をしばらくしてから理解する。勘ぐりすぎていた。彼女は別の話をしている。僕の心中が浮き上がったわけではない。  一か月半前の、あの蝉時雨に降られた日。暑さに当てられたのか僕はぼんやりしていて、くだらないけれどそこそこ大きな失敗をやらかした。  県下に十数店舗ある塾へ、翌日に控えた一斉模擬試験テストを納品したのだが、一部学年の違うテストを封入してしまったのだ。たまたまある店舗の講師が納品物をチェックしていたところ発覚し、全ての店舗を営業車で回り、納品物を確かめ、差し替え、その作業は深夜にまで及んだ(塾という商売柄、遅くまで営業してくれていたのはせめてもの救いだった)。もしも気付かないままテストが行われていたらと思うと冷や汗が出る。義父の旧友である人事部長にまで報告が上がっていたに違いない。  八尾さんがこんなことを言い出したのは、主賓でありながら暗い表情をしている僕を励まそうとしたのか、先ほどの小さな嫌味を払拭しようとしたのか、その両方か。     
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