蝉時雨に沈む

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 しかし、正直なところ腹立たしかった。何も別れの宴席で失敗談を持ち出さなくても良いじゃないかと。心を見透かされたのかと焦った気持ちも手伝い、感情が波立つ。  良識ある社会人としては、謝罪と礼を述べるべきだと理解していた。なにしろ、あの日、西へ東へ営業車を走らせ、差し替え作業に付き合ってくれたのは八尾さんなのだから。エアコンのない資料室で梱包をほどき、テスト用紙の上にぽたり滴り落ちた汗をガーゼハンカチで素早く拭ってくれたのも。  でも、蝉のせいと懐かしむように繰り返す彼女に、あの時はお世話になりましたとはどうしても言えない。それこそ今更。  彼女が返杯しようとビール瓶を持ったのに気付いたけれど、テディベア――前田課長に呼ばれたのを良いことに僕は立ち上がった。    二次会は開かれず、元々参加者も少なかったため、店を出てすぐの解散となった。八尾さんと同じ電車にならないよう、かなりの早足で駅に向かう。なんなら駅からタクシーを拾っても良い。紙袋に突っ込んだお仕着せの花束(ブーケ)がガサガサと無粋な音を立てる。  いつもの神社に差し掛かると、外灯の下、虫の音が響いていた。涼やかな風が吹き渡っており、重くまとわりつく夏の空気はすっかり拭われている。     
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